縦に細長い紅海。シナイ半島はその北から、逆三角形の形をして紅海に突き出している。その半島の東岸の北端、つまり半島の付け根部分は複雑だ。ここに面するのはサウジアラビア、エジプト、イスラエルそしてヨルダン。南側のサウジアラビアとエジプトはともかく、北に位置するイスラエルとヨルダンは、どうにかこうにか領土のつま先を突き出して外海へのルートを確保したという恰好だ。だから、その海岸線はきわめて短い。
とりわけヨルダンにとって、この短い海岸線は重要だ。地中海に面するイスラエルと違い、ヨルダンはほぼ内陸国。ヨルダンにとっての海とは、この海岸線のことのみを指すわけだ。
海沿いに広がる街の名前は、アカバという。古くより交通の要衝として交易が栄えてきたのはもちろん、近年はヨルダン屈指のリゾート地でもあり、経済特区の位置づけにある。
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ヨルダンを南下してこの地域に向かう道は、古くは王の道と呼ばれ、旧約聖書にも登場しているという。青銅器時代から人間が暮らしていたとされるその地は、しかし現在となってはただ雄大な自然が広がるばかり。自転車で駆け抜けたならさぞ心地よいことだろう、というこの道を、交渉したタクシーに走らせる。やや高くつくのだが、ともかく一刻も早くエジプトに到着したかったのだ。エジプトに向かうためにはアカバの港から船に乗るのだが、日が暮れる前にどうしても港に着いておきたかった。
この種の船便というのは、だいたいにおいて厄介だ。その理由というのは、一にも二にも、タイムテーブルにある。とにかく出航しない。いつまで経っても出航しない。これが日本であれば、たとえどれほど寂れてしまった路線であっても、気象の問題などがない限りは定時に出航するものだ。でも海外では、特に途上国ではそのような常識は通用しない。船が停泊しているのは出航の準備のためでなく、出航したくないから停泊しているのだ、という気がしてくるほどに出航しない。フランツ・カフカの小説のごとくだ。
定められたタイム・テーブルがほとんど意味をなさない理由は明快だ。つまり、彼らは人も荷物もできる限り満載に近い状態にしてから船を動かしたいのだ。コストを考えれば確かに理には叶っている。それにしても。
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タクシーはご機嫌な様子で港へ滑り込む。なにしろこの運転手はご機嫌なのだ。ペトラからの大口の客を捕まえたこと。そして、道中その客のかけているかっこいいサングラスと自分のものを交換したこと。さらにはその客は、チップもそれなりに弾んでくれた。またヨルダンに来るときには呼んでくれと名刺を渡し、彼は帰っていく。
でも彼が手にした新しいサングラスは、エルサレムで購入されたなかなかの安物だった。僕だって、べつに騙そうと思ったわけではない。でも彼がいたく気にいって、ぜひとも交換してくれとせがんだのだ。一応買い値も伝えようとしたのだが、なにしろ通貨が異なるからややこしい。そうこうしているうちに、彼はさっさと話をまとめてしまった。でも少なくとも、僕のものは日本円にして二千円以下、彼のものは四千円は下らないだろう。若干の罪悪感に苛まれ、少し多めにチップを渡したというわけだ。
とはいえ彼は満足そうだし、こちらとしても得をしたわけだから(なにしろ僕の持っていたサングラスは表面になぜか "SPORT"とプリントされていて、縮み上がるほどにダサかったのだ)、この取引は幸福な結末を迎えたと言って差し支えはないだろう。不幸なのはただひとり、ペトラ以来半死状態で横たわっている相方だけだ。
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アカバ発ヌエバア行きのフェリーは、とにかくその出航時間が不定期だということのほかに、客席はなかなかに快適であるという話も伝わってきている。とにかくすぐに身を落ち着けたいという一心で素早く出国手続きを済ませたのだが、いざ船に乗り込もうとすると警備員に制止される。おそろしく英語の伝わらない彼が身振り手振りでなんとか伝えてくれたのは、荷も客もまだ少ないからしばらく出航はしない、よって乗り込むことまかりならん、という無情の通告だった。彼があごをしゃくる先には、売店が集まり申し訳程度の屋根を用意した屋外の待合所。客が集まるまでそこで待てというわけだ。
屋根の下にはテレビが設置され、ベンチも並べられている。しかしこのベンチには、人を座らせようという意思は微塵も感じられない。座席は底が抜けそうな乱雑なつくりなのに、背もたれとの角度は綺麗にきっちり九十度。椅子というより矯正器具だ。相方はさっそく横になり、絶え絶えといった様子の寝息を立てはじめる。となれば、移動もできず、ただ時が過ぎるのを待つほかない。やがて日も落ち、辺りを暗闇が包む。少しずつ、待合所に人が増えてゆく。しばしば割れんばかりの大声でスピーカーから何らかの知らせが聞こえるのだが、すべてアラビア語で何のことやらわからない。注意深く人びとの様子を眺めるが、動き出す気配はない。それを幾度も繰り返す。消耗戦だ。
ようやく人びとが大移動を始めたのは、日付も変わってからのことだった。あわてて相方を叩き起こし、荷物を引きずって列に加わる。よくよく見ればエジプシャンらしい顔つきの者も増えている。
ぼう、という汽笛を闇に溶かしながら、船はそろそろと出港する。遠くにイスラエル側の街の灯りが見えている。売店で小腹を満たし、やわらかい客席に沈み込むと、あっという間に眠りが僕を支配していった。