Biotope Journal Weekly vol.6 上海 彼女の見つけた陽だまりは(2012.11.18)
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Biotope Journal Weekly
vol.6(2012.11.18)

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こんばんは。退屈ロケットのスガタカシです。
今週はトルコのとある山奥、奇妙な石岩にとり囲まれた街よりメールマガジンをお送りします。「世界遺産やランドマークより、人のくらしを見てみたい」なんて見栄をきったぼくたちですが、現実に自然の創りだす造形のすさまじさを前にしてみると、それは自分の想像力を軽々と超えるもの。そして一方では、そんな環境でもふつうに暮らす人々がいて、自然もすごいけど人間もな、なんて、間の抜けたことを感じつつ、大都市・上海に思いを馳せてメールマガジンを執筆中です。

Biotope Journal 第6週目は「上海・彼女の見つけた陽だまりは」のジャネット。
彼女の取材に伺ったのは、気持よく晴れわたった9月の週末。決してお金のかかった部屋ではなかったけれど、彼女の等身大のこだわりが、心地よい空間でした。そして話してみると、しっかりもののように見えた彼女のアレ? と思う一面も。

それでは今週も、どうぞお楽しみください!

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■ Biotope Journal リポート #006|ジャネット
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上海の中心から地下鉄に乗り二十分も進めば、地上に出たそこの景色はおよそ上海とは思えない、そんな場所も増えてくる。近代的な建物はなりを潜め、伝統的な町並みが続くような場所。あるいは、近年の目覚しい開発とは無関係に、昔からこの地に住む人々の生活が活発に営まれるような場所。
今回訪ねたのは、この後者のような一角にある、やや古びたアパートの一室だ。隣人たちはみな古くからの上海人で、独特な習慣を持つ。小さな鉢植えやプランターに植物を植え、あたりを緑で埋め尽くすこと。また鳥や猫などを飼って育てること。こんな環境が気に入ってここに住んでいるのが、外国人に中国語を教える仕事をしているジャネット。女性がひとりで暮らす部屋に押しかけることをためらいもしたのだけれど、恋人の同席のもと、笑顔で迎え入れてくれた。インタビューの間、彼がキッチンでずっと調理をしていた(このあと二人で食べるランチだろう)のも印象的だった。

◆ふるさとから遠く離れて

多くの中国人の若者と同じように、ジャネットが故郷を離れたのは、高校を卒えて大学に入るとき。故郷の安徽省・六安*を出てどこか都市部の大学に入るとなって、さて、どこへ行こうかと女子高生の彼女は考える。広い中国、どこへでも行ける。それは本当に、心躍る体験だ。生まれ育った街から離れて、新しい場所で、違う環境の中で、自分の生活を始める。
まず選択肢から消えるのは、北部だ。なにしろ彼女は、寒いのが苦手。それに加えて、黄砂*もある。北京はダメ、ということになる。思い浮かんだ地名は、古い歴史の街・西安。今でも好きな素敵な街だし、彼女の父も西安で大学を卒業した。けれどもその父いわく、とても乾燥した土地だという。乾燥はいやだ。では南へ、と選んだのが廈門(アモイ)*だった。
彼女が選ばなければいけなかったのは、もちろん場所だけではない。なにより大切な、専攻の問題がある。文系だった彼女は、特に地理学と教育学にかかわることに興味があった。ところが、高校で地理を勉強することは大いにやってよろしい、しかし大学で地理を専攻することはまかりならん、とは父の厳しいアドバイス。「私、そのときは怒りました」と彼女は言う。もちろん父の言葉は就職を心配してのことだったのだけれど、納得がいかない。
友達に相談したりもして、でも結局彼女は、教育関係の専攻に決める。対外漢語*というこの専攻は、当時はそれほど人気ではなかった。でも今はかなり多くの学生が選ぶようになっている。
そんなふうにして、彼女の大学生としての暮らしは、始まった。

◆遠く離れすぎて

大学生になって、初めての恋人ができる。結局彼とは7年にわたって交際し、今は結婚を予定するまでになっているのだけれど、当時は難しいこともあった。彼は上海の大学にいる。つまり、最初から遠距離恋愛なのだ。実は、彼は高校の同級生。けれども高校生の頃は、恋人同士にはならなかった。大学生になって、メールを交換したりするうちに、関係が深まっていった。もしかすると故郷から離れて、お互いに不安に満ちた生活の中で言葉を交わしたからこそ、そういうふうになれたのかもしれない。
一年のうちに会えるのは、たったの三回。夏休みと冬休み、そしてそれとは別の連休だけだ。夏と冬には故郷で、連休には上海か廈門のどちらかで。ふたりで旅行に出かけることもあった。
辛くはなかったの、と尋ねる。もちろん辛かった。でも大学三年生になって、上海の大学院に進もうと決めてからは、それが支えになったのだという。
おそろしく純粋でまっすぐな言葉を聞いて、少し意地の悪い質問をしてみたくもなる。他の人と付き合おうとか、そういうことは考えなかったんですか。すると少し考えてから、彼女は答えてくれる。一度か二度、考えたことはある。でも結局、ほかの人と親しくなる機会なんてほとんどない。「だって、彼氏いるかって聞かれたら、彼氏いるよって答えちゃうから」。彼女は笑う。なるほど、それはまったくその通り。
驚くべきことに、彼が彼女の、そして彼女が彼の、初恋なのだという。そこまで徹底されると、もうそれ以上くだらない質問を畳み掛けることはできない。周りの友達はふつう、大学に入って、そこで別の地方から来た異性と恋愛をする。でも出身が違うと、考え方や習慣が違うことも多くて、関係がうまくいかないことが多い。それでいろいろな人と別れては付き合い、を繰り返す人もいる。でも彼女の場合は、そんな心配もない。

◆先生だけど、年下。

大学院に入るときに上海に移ったのは、ただ彼と同じ場所へ、ということだけが理由だったわけではなかった。むしろそれ以上に大切だったのは、故郷への距離。山がちな地形の関係で、廈門から故郷まで列車で帰るためには、おそろしく時間がかかる。直通電車もなく、乗り継ぎをして、なんと合計28時間。上海だってそう近いわけではないけれど、たった4時間で帰ることができる。
もちろん彼女も一人っ子*。だから、両親のもとへすぐに帰れるということは大切だ。今はそれほど心配するほどのことはない。両親はまだ若い。彼女が生まれたのは、彼女の母親が今の彼女と同い年のとき。つまり25歳のときだ。もっとも、彼女自身は、まだまだ結婚してすぐに子どもをつくろうという気はないけれど。
大学院に入って、環境は大きく変わった。住む街、恋人との距離もそうだけれど、もうひとつの大きなことは、彼女が実際に教壇に立つようになったということ。まだまだ学生の身分ではあるけれど、でもひとたび教壇に立てば、生徒たちは彼女のことを「先生」として見るようになる。いままでとは180度異なる立場に身を置くようになって、その違いを彼女は実感するようになる。でも、教える立場になって、はじめて教わることもある。とくに彼女の生徒は、外国人ばかり。様々なバックグラウンドをもった、様々な生徒が、彼女のところに集まる。そのそれぞれは、とても興味深い。
大学院生の頃はもちろん、卒業して完全な社会人になった今でも、彼女はまだ先生としてはとても若い。だから、生徒たちが彼女より年上だということは、ごく当たり前に起こる。ふつうならプレッシャーになってしまいそうなそんな状況の中で、でも彼女は、無理をして先生ぶろうとしない。むしろ生徒たちの友達のような気分でいるように心がけるのだという。
「私はそんなにユーモアあふれる人ではないけど、クラスの雰囲気はとてもいいんです」。ふだんはとても謙虚で飾らない喋り方をする彼女だけれど、少しだけ誇らしそうに言う。
でも良いことばかりではない。授業をするのは楽しいけれど、勤務の半分は授業外の時間だ。オフィスに座って、事務作業をしたり、生徒の質問に答えるためにただ待機しなくてはいけない。それはとても退屈だ。学生時代のことを彼女は思い出す。学生のときは、授業が終わってしまえばあとの時間は自由だった。好きなことができる。たとえば図書館に行ったりだとか。学生のときよりももっと強い気持ちで、勉強がしたいな、と彼女は思う。

◆ひとりの時間には

オフィスにひとりで過ごす退屈な時間とは全然ちがう、大切なひとりの時間がある。彼女はそれを、自分の部屋の小さなスペースで過ごす。寝室の外側だけど、バルコニーとも呼べないような、きちんと窓のついたスペース。
窓の外には、鉢植えやプランターの緑が鮮やかにひろがっている。こんな風に植物を育てるのは、彼女が好きな、近所の人々の、昔ながらの上海人スタイルだ。そんな景色を感じながら、でも彼女は自分のプライベートな空間にいることができる。外でありながら、中でもある。外でもなくて、中でもない。ひとりぶんの椅子と机が置かれた、いってみればカジュアルな書斎だ。ここで彼女は、物思いにふける。
それを助けてくれるのが、たとえば映画や音楽。ジャンルの選び方ははっきりしている。友達といっしょに楽しむときは、映画ならコメディー。カラオケなら、ノリのいい曲。だけどひとりのときは、ときには涙が流れるような、心に触れるものがいい。テイラー・スウィフト*とか。あと、日本のいきものがかり*も好きですよ、と驚かせてくれる。それだけでなく、日本の映画も好きだ。『Love Letter』や『嫌われ松子の一生』は、とくに心に残っている。
それから最近彼女がハマっているのが、アメリカやイギリスなどのTVドラマ。なかでも『グレイズ・アナトミー』がお気に入りで、もう何シリーズにもわたって、楽しみに見ている。ほかには『シャーロック』など。英語圏に住んだことがあるわけではないのに、専門用語以外は基本的に字幕なしで聞き取れる、というあたりはさすがだ。
ところで、これらを視聴するのはいつも、自分のパソコンだ。部屋には大きなテレビがあるけれど(高級だから大きいのではなくて、旧型だからいたずらに大きい)、これは彼女のものではなく、部屋のオーナーが置いていったものだ。電源を入れたことすらなくて、「ただの大きくて黒い邪魔な箱」になってしまっている。

◆彼女のいる場所

彼女は、まず居心地のいい空間をつくる、ということの大切さをよく知っている。部屋を見ればそれがわかる。たとえばこの部屋には、テレビのほかにもオーナーの置いていったさまざまな家具がある。年代もので、とても現代的な趣味には合わないのだけれど、彼女はそれをうまく配置して、部屋の雰囲気とけんかしないように、馴染ませる。下手な人なら無駄にしてしまいそうな狭いスペースを、彼女は居心地のいい自分だけのスペースに仕立て上げてしまうこともできる。
そんな彼女の部屋を見ていると、彼女の教室がどんな雰囲気なのかがイメージできる。教室でもやはり、彼女は居心地の良さを大切にする。だから、その場しのぎの盛り上げかたをするのではなくて、友達のような気持ちで、少しずつひとりひとりと心を通わせて、徐々に空気をあたためていくのだろう。そんなふうにあたたまった空間は、簡単に冷えてしまうことはない。違う言葉で話すことには、はじめはとても勇気がいる。でも、彼女のクラスの中では、生徒たちはごく自然に、恐れることなく中国語を話せるようになる。
ときには怒っているのかと錯覚してしまうほど、大声で強烈な話しかたをする中国人が多い、というイメージの中国語。でも彼女に習ったならばきっと、もっとやわらかで優美な、おそらくは本来の「中国語」を身につけることができる、のかもしれない。

文・金沢寿太郎

Web "Biotope Journal" ジャネット編
http://www.biotopejournal.com/tags/Janet

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■ 今週の参照リスト
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《脚注》

◆六安
安徽省西部にある都市。その歴史は古く、前漢時代にまでさかのぼる。

◆黄砂
特に中国に顕著な、砂漠等の砂塵が巻き上げられ広範に渡って降り注ぐ気象現象。中国北部・西部では、特にゴビ砂漠やタクラマカン砂漠の影響が強い。日照を悪化させることによる農業への影響、砂塵の吸引による健康被害など、その影響は広範で多岐にわたる。

◆廈門
日本も含め、国際的には「アモイ」として知られる、福建省の都市。中国五大経済特区のひとつに数えられる。上海と同じくアヘン戦争後に開港され、租界が形成された。一方で海外に出稼ぎに出る華人も増え、華僑と呼ばれた。この名残は現在にも続き、特に地理的な理由から、東南アジアの国々との交流が盛んである。

◆対外漢語
外国人に対して、第二言語としての中国語を教えること。この資格団体は中国国内に多くある。中には世界各国に正式に認可されているものもあり、これに基づき他国で中国語を教えることもできる。

◆一人っ子
現在の20代の若者は皆、もちろん、一人っ子政策(1979〜)の下に生まれている。

◆テイラー・スウィフト
2006年、17歳時のデビュー以降立て続けにヒットを飛ばしているアメリカの女性歌手で、若い女性でありながらカントリー・ミュージック色が濃く、これも人気の要因になっている。グラミー賞はじめ多くの賞を受けている。

◆いきものがかり
1.女性1人男性2人のグループ 2.とても人気がある 3.「♪ありがとう〜」はいい曲だった 筆者にわかるのはこの程度です。読者の皆さんのほうが詳しいと思われます。

◆Love Letter
1995年公開。中山美穂・豊川悦司主演。岩井俊二監督の映画監督としての長編第一作で、日本アカデミー賞優秀作品賞を受賞。韓国・台湾等でも公開され、アジア各国で人気を博した。

◆嫌われ松子の一生
山田宗樹の同名小説を原作とした、2006年公開の映画。中島哲也監督、中谷美紀主演。DVDは、日本のほかに香港版・台湾版が発売されている。

◆グレイズ・アナトミー
アメリカ合衆国ABC系列のテレビドラマ。2005年の開始以降人気を博し、2012年9月より第9シーズンが開始。取材時は開始直前で、楽しみにするあまり彼女は開始日まで暗記しているほどだった。日本ではWOWOW、AXNで放映され、DVDも発売されている。http://www.wowow.co.jp/drama/grey/

◆シャーロック
イギリスBBC製作のテレビドラマ。『シャーロック・ホームズ』を下敷きに、現代に置き換えて描いている。2010年に第1シリーズ、2012年に第2シリーズ。日本ではNHK BSプレミアムで放映され、DVDも。http://www9.nhk.or.jp/kaigai/sherlock2/index.html


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■ 旅日記【ロケットの窓際】 006香港
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 異国の中でさらに異国情緒に触れてしまうと、すべてが打ち消されて、多国籍というよりは無国籍というのにふさわしい空気を感じることになる。華やかで洗練された香港の中心街に今もって異形の姿で存在する重慶大厦(チョンキン・マンション)が、たとえば、そんな場所だ。
 
 正確にいえば情緒などというものは存在しなくて、ただ無秩序に雑多に、様々な文化の切れ端が詰め込まれているというのが正しい。仄暗いグラウンド・フロア(階数は英国式の数え方。日本でいう一階)を制する香りは、インド風の強烈なスパイス。飛び交うのは広東語、英語、ヒンドゥー語、アラビア語、その他のよくわからない言語。怪しげな客引きの〈ニセモノアルヨ〉の決めゼリフも、いったん考えてみなければそれが日本語だとわからない。
 目立つのは両替商。店舗によってかなりの幅でレートが異なる。およそ競争が成り立ちそうもないが、よく観察すると通りに面した入り口に近くなるほどレートが悪い。奥まったところにある、いかにも怪しい店になると、なかなかのレートだ。つまり、勇気をもってカオスの奥に飛び込まなければ、それ相応の利は得られない。目に見えない何かが様々なバランスを保っている。

 このフロアには他にも、雑貨屋、鞄屋、CDやDVD、電化製品の店から、食堂、文房具。洋服店どころか、果てはランドリーや衣服の補修まで、ありとあらゆる店が揃っている。あとは寝床さえあれば生活ができてしまう。

 その寝床は、最高で十七階まである上層フロアにこれでもかというほど詰め込まれている。ホテルといえるレベルのものからいわゆる安宿まで、看板のあるホテルからないホテルまで、大小様々だ。宿の総数を正確に把握している者は、世界にひとりも存在しないに違いない。

 そもそもこの建物――あるいは建物群の異常なところは、ひとつの巨大な建物に見えてそうではないということだ。本来重慶大厦は五棟のビルの集合体で、地上二フロアだけが何かの間違いで癒着してしまった、という具合の構造である。上層階では建物間の移動が不可能で、グラウンド・フロアでは五箇所十種類(常に偶数階用・奇数階用のふたつがセットになっている)の中から正しいエレベーターを選ばなければならない。これをひとたび間違うと非常に厄介な目に逢うことになる。往来する人々の数は常にエレベーターの輸送能力を軽く超えているため、エレベーターの前には常に長蛇の列があり、おいそれと乗り込むことができないのだ。途中階から乗り込む場合は、やっと来たエレベーターがすし詰め状態の満員、というケースもままある。よく観察すると、乗り慣れた者は、昇降が逆であっても空きがあればさっさと乗り込んでしまっている。つまり七階から地上に降りたい場合、昇りのエレベーターに乗ってしまい、一度最上階に行ってからそのまま乗りっ放しで降りてくる、という具合だ。一見無秩序に見えても、入り乱れる人々の中に秩序は自然に生まれ、状況の正しい御し方もちゃんと法則的に成り立つものだ。
 
 安宿は上層階、やや高価な宿は低層階に集まっている。この理由は、地上までの〈交通の便〉ももちろんだが、それ以前に安全性に料金が伴っているという部分が大きいように思える。つまり、万一火災などが発生した場合に逃げやすい、ということだ。こんな場所で火災などが発生しようものなら、およそ地獄絵図のような様相を呈することは目に見えている。しかもこれは仮定の話ではなく、大小はともあれ実際に発生した例はあるというから恐ろしい。宿と宿の間には、隙あらばという感じで大小のレストランが詰め込まれているから、これも頷ける話だ。
 
 衣食住が完結したこの空間は、完結しているからこそ異様な雰囲気に包まれている。生活は成り立たせられるが、その成り立つべき生活の文脈というものがおよそ想像できない。誰がどんな理由でこんな建物を造ったのか。人々はどんな経緯で集まり、どんな目的に向かっているのか。そのベクトルは、発展とか洗練という言葉とは無縁であるように見える。たしかに建物の一部は近年になって改装され、現代風のショッピングモールに小奇麗な店舗が礼儀正しく並んでいたりする。でもその部分はただ表通りとだけ接続されていて、旧来の空間とは無関係に成り立っている。
 
 ここで働く人々、食堂にたむろする人々、何をしているのだかよくわからないがとにかくそこにいる人々。ここでの彼らの暮らしは、来し方とも行く末ともおよそ断絶しているように思える。建物はもはや誰の意思をも離れて勝手に姿を変えていき、そこに棲む人々も、前後のない澱みの中を漂うだけだ。ただその漂い方にだけ、強烈な意思がある。過去も未来もなくて、有象無象の〈いま、ここ〉への意思だけが激しくぶつかり合い、絡み合う場所。世界各地からの旅行者をここに惹きつけるものは、単に宿の価格という点だけでなく、そんな漂泊の空気そのものなのかもしれない。



 僕らは宿から宿へを転々としながら、ここに十日以上も滞在した。ちょうどウェブサイトを立ち上げるために落ち着いて作業をしなければならない時期だったのだが、篭ってしまうことにはうってつけの場所だった。留まるよいうよりも棲むというのに近い。
 奇妙な居心地の良さは、どこまで行っても自分がよそ者に過ぎないというところにあった。ここの混沌は、根を下ろすためには深すぎる。出て行こうと思えばすぐにでも出て行けるのだ、という空気が、むしろ僕を安心させる。きっとそれが旅人たちを、逆に長居させてしまうのだろう。腰は特に重くもないから、そう焦って上げることもない。
 行きつけのワンタン麺屋もできたような頃、僕らはようやく次の町への切符を買う。ふたたびの中国本土。僕らにはノービザ滞在期間として、新たな二週間が与えられる。

〈続〉

文・金沢寿太郎

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■ アフタートーク【ロケット逆噴射】 006
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スガ
今週は、ジャネット。上海ともお別れですね。

寿太郎
はい。

スガ
このあと僕たちは香港にむかうわけだけど、北京、上海と4組の取材して、まだこの時点ではBiotopeJournal、サイトもできてなかった。

寿太郎
そうだね。なんだか旅が始まったかどうか実感もあんまりないまま、怒涛のごとく取材してた時期だった気がする。

スガ
うん、ジャネットの取材が終わった時点で、まだ確か中国はいって10日目くらいだったから。

寿太郎
そうだっけ。まあ2週間以内というのがあったからね、何しろ。旅行記でも触れたけども。

スガ
ノービザ滞在2週間以内、ってやつね。まあでもサイトもできていない段階で4組も取材できたのはほんとうに助かりましたよ。

寿太郎
いろんな人に助けていただきました。

スガ
でも考えてみると、ジャネットもウェンビンもルーランも、みんなけっこうおとなしいタイプというか。や、おとなしいというのはちょっと違うかな。

寿太郎
派手じゃない、というほうが正確だと思うな。

スガ
そう、派手じゃない。ルーランの時にも話したけど、いわゆる「押しのつよい中国人」みたいな人にはぜんぜん会わなかった。みんなおだやか。

寿太郎
そうだね。若い学生なんかの中には、実はあんまりそんな人いなさそうな気がする。

スガ
取材した人以外で出会った中国の人たち考えてみても…、んー、そういう人、ひとりもいなかったっけ?

寿太郎
ちょっと思いつかない。宿のレセプションの女の子がなぜかずっと怒ってる、とかはあったけど。

スガ
あーw
でもあれだ。メイヨウがあるね。

寿太郎
メイヨウは押しの強さというより引きの素早さだね。

スガ
素早く、そして有無を言わせないかんじね。

寿太郎
ないもんはないんだ、という。

スガ
そう。中国はサービス業の接客とかがどうしようもない感じ。

寿太郎
サービスという概念がそもそも希薄だからね。最近ようやくサービスが重要になってきたんだろうけど、まだまだ、という感じ。

スガ
店の人とかは感じが悪いのがふつうだから、たまに愛想のいい人がいるとけっこううれしかった気がする。
寿太郎くん、眠そうだね。

寿太郎
内陸部のほうとかいくと、のんびりしててそういう人多かったね。
眠いよ 最近全然ちゃんと寝てない気がする。

スガ
バスの移動とか多いもんね。

寿太郎
バスの移動もだけど、ふつうにベッドがあってもいまいちだね。

スガ
ぼくたちは今、トルコの国内をすこし取材しながら回っておりまして。取材とかもあるからそれなりに強行スケジュール…、なのかな。

寿太郎
救いはトルコのバスはけっこう質がいいということ。夜行バスの中でも、まあまだ眠りやすい。

スガ
Wifiはなかったけどな。

寿太郎
あるほうがおかしい。旅行会社の人があるみたいなこと言ってたから期待してしまったけど。でも隣に停車してたバスはありそうな感じだったね。

スガ
そうそう、となりのバスはありそうだった。ハイテクバス、けっこう楽しみだったんだけどな。

寿太郎
ま、とりあえず寝られればいいという部分はある。

スガ
今日もメルマガ発行して明日からのWebの準備したら、また夜行バスだからね。

寿太郎
しばらくベッドで寝られない、というわけで早くこのベッドで寝たいなと思っておるところであります。

スガ
どうぞぐっすり眠ってください。
彼女の部屋の作り方、あのベランダ沿いの小部屋の感じなんかは日本人の感覚とも近いんじゃないかと思ったな。

寿太郎
そうだね、ああいうスペースは日本にはないけど、スペースの使い方がこじんまりして日本っぽい。

スガ
そうそう、狭いところに自分のすきなものを集めて、そこにきゅっとおさまる感じね。ちょっと秘密基地っぽい。

寿太郎
それはある。

スガ
日本でも「狭いところがすき」って人、結構いるもんね。せまくてぴったり囲まれてる感じが安心する、というか。

寿太郎
自分の体の輪郭の延長、ぐらいの感じでフィットする感じかも。ちょっとわかります、俺も狭い部屋とか好き。

スガ
うん。意外だなと思ったのは、中国って、国もすごく広いし、道も広い。マンションとかの建物もいちいちすごく巨大じゃない。だから、そのへんの身体感覚ってすこしちがうのかと思ってた。

・・・あれ? もしもし寿太郎くん?

ええと突然ですが、寿太郎くんが寝てしまったようなので、アフタートークは一時中断。後ほど再開したいと思います。
おやすみなさい。

〈約10分経過〉

寿太郎
身体感覚。上海はでも、裏通りだとかわりと日本っぽかったりもした。

スガ
え、ああ。ふつうに続けるんですか。おはようございます。
裏通り? あー確かに。表通りはすごくだだっ広くて巨大だけど、路地は意外とちまちましてて商店街みたいなのがあったね。
でもほら、北京の夫婦の彼女、肖思も言ってたけど、レストランとかですごく巨大な円テーブルを囲むことがあって、声張らないと向かいの人に声が届かない、みたいな話もあったじゃない。

寿太郎
はいはい。親戚一同みんな集まったときとかね。

スガ
そうそう。それが国土の巨大さから来ているものなのかどうかはわからないけど、だから、やっぱりどこかしら日本人とはちがう感覚も持ってると思うんだよね。
だからジャネットの小部屋は意外な感じがした、というわけ。

寿太郎
まあでも、国土の巨大さみたいなものはあるんじゃないかな。
日本でも北海道とか、表通りやたらと広くてびっくりしますよ。

スガ
ああ、北海道はそうだね。でも中国は広いことに加えて人もすごく多い、っていう。

寿太郎
個人の単位での自分のテリトリー意識みたいなものはむしろ日本人のほうが比較的広いと思う。

スガ
あー、たしかに。身体の接触に対する意識がちがう感じ。

寿太郎
電車の中で、どれぐらいの範囲の中に人がいると不愉快に思うというか「混んでる」という感覚になるか、みたいな話がある。中国は人口が多いからか、むしろそういう範囲が狭い。

スガ
そうね、人口密度が高くなると、人との接触が増えて、それから飛び交う音の量も増える。それに対する耐性が強いというか、あんまり不快に思わないところはあるね。

寿太郎
日本でも田舎と都会で違うと思うね。

スガ
印象的だったのは、福永さんが北京の夫婦に日本語の家庭教師をしてる時にね。

寿太郎
ふむ。

スガ
教科書の例文か何かを読んでたんだと思うんだけど、「中国はどんな国ですか」「中国は賑やかな国です」みたいなのがあって。

寿太郎
あったね。

スガ
どこかで他の人も言ってるのを聞いたことがあるけど、ごく自然に「賑やかなのが好き」なんだなぁと。

寿太郎
でもそれを「賑やか」だと思ってるというのが面白い。つまり相対化はちゃんとしてるわけで。

スガ
そうそう。「静か」というのも分かるし、それの価値もわかるんだけど、やっぱり「賑やかなのが好き」という。

寿太郎
まだそういう話をするような人は相対化してるんだけど、その辺歩いてるオッサンとかは別に、それが普通だと思ってると思うけど。

スガ
ああw 電車の中とかで音楽聞くときもイヤフォンしないしね。
なんにしても、みんなでわいわい楽しもうぜ、みたいな。

寿太郎
賑やかにも種類があるけどね。単純に電車が走っててうるさいみたいなのは騒音だね、ウェンビン家みたいなの。

スガ
電車が走る音は、やっぱり中国の人にだって騒音なんじゃない。

寿太郎
そりゃそうだね。問題は人のうるささというか。
みんなでわいわいというのは、電車の中でけっこう顕著だよね。特に硬座。すぐ菓子だの酒だの勧めてきてくれるからね。硬臥とかの寝台はそれほどでもなかったけど。

スガ
うん、あれはすごかった。夜も一切消灯とかしないしね。隣の人同士、べつに友達とか知り合いじゃなくても、身体を密着させながら仲良く話したり、みんなでおやつ分けあって、わいわい食べる。
ええっと、ジャネットの話からだいぶ飛んだけど。

寿太郎
彼女の小部屋の感覚は、わりと日本人と似ていると。

スガ
そう。ああいう小部屋でひとりになりたい、ていうのはあるんだな、ていうね。
あ、いまふと「隠居」の感覚に近いかな、と思ったけど、隠居ってもともと儒教的な何かでしたっけ。

寿太郎
彼女の場合はちょっと違って、外と接しながら自分のプライベートなところにいる、という感じだと思うよ。あの部屋は。
儒教の偉い人が隠居したりはしても、別に隠居すること自体が儒教の教えの中でどうこう言われたりみたいなのはなかったような。
で、彼女のあそこの部屋は、外の緑に触れられるからいいんですよ。外の緑に触れながら、なお自分の個人的なスペースであるということ。

スガ
ああ、外っていうのはベランダの緑のことね。
なんというか、そのへんも含めてちょっと日本の隠居にも近いような気がして。自然を愛でて本を読む、みたいな。

寿太郎
まあそうだけど、そのあとにきちんと社会とのコミットメントを想定してるからね。
そのためのリフレッシュ、という部分が大きいから、その点全然隠居とは違うかと。

スガ
そりゃもちろん、本当に隠居するわけじゃないよ。
でも日常的にいつでも、なんというか、「プチ隠居」できる時間とか空間を持ちたい、っていうのは共感する日本人もすごく多そうじゃない。
リフレッシュなら、もっと外向的なリフレッシュのしかたもあるわけでさ。
だからね、へぇー、と思ったんですよ。

寿太郎
プチ隠居ね、そういう言葉ならわかる。隠居というと、完全に世俗と断絶してしまう意味があるからそのへんで違うと思ったわけで。
もちろん、他のひとに干渉されない自分の空間で自分の時間の流れ方の中で過ごす、というのは大切ですね、誰にとっても。

スガ
ま、そういうことですかね。

というわけで、僕たちは上海から香港に脱出して、サイトの立ち上げのために缶詰な日々をおくるわけです。

寿太郎
うん。しかし立ち上げてからまだ、人と空間はやってませんね。

スガ
「空間と人」ね。「人とくらし」ともうひとつのカテゴリ。
サイトができてから1ヶ月。空のままだったけど、来週はいよいよやりますよ。

寿太郎
そうですね。

スガ
来週というか、もう明日。月曜日からだけどね。まだ一文字もできてません。

寿太郎
やってみないとわかんない部分がありますね。

スガ
今までの「人とくらし」とはだいぶ違う感じになるはずだけど。まぁ、どうなりますやら。

寿太郎
面白くなりそうですよ!! と言っておきます。

スガ
そうですね。また来週。

寿太郎
ねむい。

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編集後記:退屈なしめくくり

アフタートークでも触れていますが、Biotope Journal のサイトでは明日から1週間、はじめての「空間と人」の記事をお届けします。Webもメールマガジンもいつもと違う趣きになる…はずなので、どうぞお見逃しなく!

ところで、じつはトルコに来てから、その土地固有のプロフェッショナルな方々や、その空間を取材させていただく機会が増えています。来週以降は東欧方面へ。ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ポーランドあたりを回って年内にドイツまで到着する予定。取材先は常に探しておりますので、もし皆さまからご紹介頂ける場合は下記宛、ご連絡いただければ幸いです。

夜行バスが出発するまであと5時間。変な岩たちの合間に夕日が沈むのが先か、明日からのWebの準備が終わるのが先か! …と、ドラマティックなのかちっぽけなのか、よくわからないかんじに気分は盛り上がりをみせておりまして。でもやっぱりその前に、腹ごしらえかな。

スガタカシ

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