Biotope Journal Weekly vol.4 北京で学ぶ、オンナノコ(2012.11.04)
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Biotope Journal Weekly
vol.4(2012.11.04)

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こんばんは。退屈ロケットのスガタカシです。日曜日の夜、いかがお過ごしですか。
ぼくらは約2ヶ月間滞在した中国を抜けて、この号を配信する頃には、ウズベキスタンの首都、タシュケントに着いている…ことを祈るばかりでありまして、原稿を書いている今は日曜日の朝、キルギスのオシュという街。ちょうど紅葉の季節を迎えていて、色づく木々が、ソヴィエト連邦の面影を残す街並みを引き立てております。

今週は中国からキルギスへと移動してきたのですが、そのかたわら、Facebookページを公開しました。詳しくは、メールマガジン最後の編集後記で、おつたえします。

さて、Biotope Journal 第4週目は「北京で学ぶオンナノコ」のルーラン。中国の頂点に君臨する大学で、女子寮の中を撮影する、というたいへん貴重な機会を頂きました。そして小柄で、一見控えめな彼女は、話してみると、一本すじの通った、美意識のようなものを感じる女の子でした。Webの方では、中国の学歴エリートたちのミニマムなくらしが展開される寮内、大学構内の写真を公開しております。今週も、メールマガジンのリポートと合わせて、どうぞおたのしみください!

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■ Biotope Journal リポート #004|ルーラン

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北京大学は、19世紀末に清朝によって設立された京師大学堂を前身とする、中国でもっとも伝統ある大学のひとつだ。難易度を見ても中国最高峰の大学であり、当然ながら入学には相応の学力が必要とされる。大規模な総合大学であり、教員・学生数ともに日本の東京大学よりも多いとされる。
北京市内の史跡やシリコンバレーが同居する区域に位置し、広大なキャンパスを持つ。またその図書館はアジアの大学の中でも最大規模のひとつに数えられ、700万以上の蔵書を誇る。
そんな巨大な図書館のほど近く、のどかに芝生が生い茂るキャンパス内の憩いの場所で、この大学で学ぶルーランに話を聞いた。


◆彼女はいかに、育ったか

「日が昇る」という意味の「冉」と名づけられて彼女が生を受けたのは、その名のとおり、東に海を見る港町、青島。
街の西側は旧市街。ドイツ租借地だった名残りの、レトロな雰囲気の欧風建築が立ち並ぶ。彼女の実家は、東側の新市街。現代的な建物が多くある。ここで彼女は、高校までを過ごした。
「両親は、勉強をしろと厳しく言ったりはしませんでした」
けれどもそれは、彼女が勉強をしなかったという意味では、もちろんない。むしろ彼女は、だからこそ、自分の意志で勤勉に学んできた。すごいですね、と思わず感嘆すると、少し照れたような顔を見せる。そんなことないです、普通にやっていただけです、とでも言いたげな顔で、でも何も言わずに微笑む。
そう、彼女は勤勉だけれど、なにか無理をしているというような空気を感じさせない。高校時代は寮生活で、朝から晩まで勉強というハードな暮らしだったけれど、放課後に別の塾に行くようなことはしなかった。彼女は図書館に行き、自分で勉強をした。週末になれば実家に帰り、そのときは勉強はしない。
自分から、自分の意志で、新しい何かを学びにいく。だから彼女は、自然体だ。今の彼女に感じられるこんな姿勢は、もうそのときにはすっかり彼女のものになっていたのだろう。


◆彼女はどうして、描くのか

週末には実家で、絵を描くのが好きだった。絵画のようなものではなくて、マンガのようなポップな絵だ。小さい頃に、お父さんが香港や台湾のマンガ雑誌*を買ってくれて、夢中になった。与えてもらったものなのだけど、そこに少女は何かを「見つけた」のだろう。自分でも描いてみよう、彼女はそう思う。
やがて彼女の好みは少しずつ変わってくる。香港や台湾のイラストには、とてもデリケートで複雑なスタイルのものが多かった。けれども彼女は、もっとシンプルな表現に惹かれていく。今の好みは、そんなイラストだ。

好きなアーティストを尋ねると、少し考えてから、答えてくれる。たとえば日本のアーティストなら、奈良美智*が好き。そういえば今日着ているTシャツも、どことなく奈良っぽいよね。たとえば色使いとか。
「でもこれ、ユニクロ*で買ったんですよ」
そう言って、彼女は笑う。
中国のアーティストだと、艾未未(アイ・ウェイウェイ)*の名前も有名だ。刺激的で、センセーショナルなアーティスト。
でも彼女は、特定のアーティストの作品を追う、みたいなことはあまり好まない。奈良にしても、作品のこともそうだけど、彼らの「スタイル」が好きだ、という。自分の意志を貫いて表現する、そのスタイル。

小さい頃夢中になったマンガは、今はあまり読まない。どちらかというと、イラスト集のような形式のものに親しんでいる。マンガをしっかり読むほどの時間もないし、それに彼女は、具体的な物語というよりも、ヴィジュアルに表されている抽象的なことがらに興味がある。


◆彼女はなにを、学ぶのか

彼女の専攻は、中国語。それも、外国人に対して、外国語としての中国語を教えること、というのがテーマだ。とても特別な研究のように思えて、どうしてそれを選んだのかと尋ねてみる。けれども彼女は、最初からこの専攻を選んだというわけではなかった。
中国の大学での専攻選びは、少しややこしい。というのも、専門分野ごとに、省ごとの枠が定められているのだ。「山東省からは○人、浙江省からは○人」というように。彼女はフランス語だとか日本語だとか、外国語を学ぶことにも興味があった。けれども、彼女の山東省に割り当てられた枠の関係で、その専攻を選ぶことができなかったのだ。
だけどやっぱり彼女は、言語に関係することを学びたい。そこで選んだのが、今の専攻だ。今となっては、この分野はとてもおもしろい、と思っている。
「なぜこの文は、このように書かれたのか、とか。それを考えるのが、好きだったんです」
彼女の学ぶ動機は、こんな「なぜ」にある。だから、「どのように」外国人に中国語を教えるか、というような、実際的なこととは少し違う。彼女が好きなのは、もっと概念的で、抽象的なこと。それを、あくまで論理的に考える。なぜこの言語はこのような文法を持つのか、とか、そんなことだ。


◆彼女はどこに、暮らすのか

彼女が暮らすのは、大学敷地内の寮だ。中国の大学生は原則的に、こうして寮に入り、共同生活をする。
学生がみなそうして寮に暮らすものだから、そこに住む人の数はたいへんな規模になる。だからそこにはきちんと、食料品店や日用品店、それに食堂といった、生活に必要な店が多く立ち並ぶ。大学の敷地内だというのに、まるで小さなひとつの街みたいだ。中国のどこかの街の、大通りから少し裏手に入ったところに、いかにもこんな場所がありそうだ。
けれども違うのは、あくまでここは大学の中、ということ。学生の生活のための場所だし、その生活は学問のためにある。生活空間が大学の一部だから、学生は学問を生活の一部として、研究に打ち込むことができる。

ルーランは寮暮らしのベテランだ。なにしろ高校のころからずっと、こんな生活だ。高校の寮は8人部屋で、今の4人部屋(暮らしているのは、今のところ3人)に比べればはるかに厳しかったのではないか、と思う。でもむしろ、高校生のころより今のほうが、共同生活の難しさは増しているという。
若ければ若いほど、生活はシンプルだし、ライフスタイルは明快だ。あの頃は皆同じ青島で育った者同士、部屋をシェアしていた。取り囲まれて育った文化も同じだし、毎日することもおおよそ、きまりきっている。
でも今は、そうはいかない。二十歳も過ぎれば、誰しも人生に様々な事情を抱えるようになる。ライフスタイルにも、個性が出始める。それから、大学生たちは広い中国のあちらこちらから集まってくる。文化も違う。とくに、食文化。
「ええっ、その野菜とその野菜を一緒に料理しちゃうの? みたいなこともあるんですよ」
彼女は笑って、そう話す。確かにそうだ。北京料理、広東料理、四川料理、湖南料理。ひとくちに中華料理といっても、皆驚くほど異なっている。
地域によって気質も違う。彼女は、出された宿題はすぐさま片付けてしまうタイプ。でも他の地方の人には、のんびりのんびりしていて、期日のぎりぎりにやっと終わらせるような人もいる。べつに彼女たちが怠け者というわけではなくて、それが彼女たちのやり方なのだ。

けれども彼女はそんな共同生活の中で、やや控えめに、でも確かに、自分の暮らしを成り立たせている。彼女のデスクを見れば、そのことが見て取れる。学問の本や、趣味の本。大江健三郎だとか三島由紀夫*、あるいは宮崎駿*なんていう名前も、背表紙には見える。それから様々な写真。写っているのは、ただの思い出や記念の品というだけでなく、今までに自分の意志で見つけてきた、色々なことがら。
休日には外に出かける。北京にはコンサートや演劇、いろんな文化があって、飽きることがない。
カフェで読書をしたり考え事をするのも好きだ。でも北京のカフェは本当に高くて、そんなにしょっちゅうは行けないのが困りものだ。


◆彼女はどこへ、向かうのか

博士課程に進むときには、学びの場を海外へ移すつもりでいる。より広い視野で学ぶことはもちろんだけれど、外国の文化や人々の暮らしにも、とても強い興味がある。イギリスがいいけれど、アメリカのほうが奨学金制度が整っているんですよね、などと、話してくれる。
彼女は、よくよく話を聞くと、たくさんのことに旺盛な好奇心を持っている。けれども一方で、彼女はあくまで、等身大からはみ出すことなく暮らす。だから欲張りにはならない。けれどもひとつひとつのものごとを、自分の意志で、少しずつ見つけていく。

結婚は30歳になったあとがいいかな、と彼女は言う。結婚してしまうと、色々なことが制限されてしまう。でも彼女には、卒業したあとは中国に戻ってきて、大学で教えたいという思いがある。
できれば北京に住みたい。いろんなものを見るために出かけなくてはいけないから、交通が便利でなくちゃいけない。でもそのことについて後でじっくり考えるためには、静かで、こじんまりして、居心地のいいところがいい。
そのほかの具体的なこと、どんな部屋がいいのかは、まだうまくイメージできない。好きなスタイルがたくさんあって困ってしまう、と彼女は苦笑いを見せる。

でもそんな場所、身軽にどこへでも行けるような、静かで居心地のいい自分だけの場所を、彼女はきっともうすでに、心の中に持っている。近い将来、彼女はもっと広い世界に飛び出していく。素敵なものをたくさん見つけて、少しずつ部屋を彩っていくために。


文・金沢寿太郎

Web "Biotope Journal" 北京大学編
http://www.biotopejournal.com/tags/Peking_University

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■ 今週の参照リスト
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《脚注》

◆香港や台湾のマンガ
表現上の規制の多い中国に比べ、香港や台湾では、日本のマンガを下敷きにしながら西欧の影響もうけ、より多様な漫画(マンホア)が存在する。ルーランが幼い頃に出会った「Cartoon」は一コマ漫画で、ストーリーマンガが主流の日本の感覚ではイラストレーションに近い。彼女は特定の作家の名前をあげることはしなかったが、たとえば香港の著名なイラストレーター CARRIE CHAU の作風は「かわいさ」と「不気味さ」がポップに同居している。一方台湾のイラストレーターの中には、西尾維新〈物語〉シリーズを描いたVOFANをはじめ、日本のマンガ、ラノベ業界で活躍する作家、コミックマーケットに参加する作家も多い。

CARRIE CHAU - offical website
http://www.wunyingcollection.com/
VOFAN 青春電繪物語
http://www.wretch.cc/blog/vofan


◆奈良美智
今年の7月〜9月、横浜美術館の個展『君や 僕に ちょっと似ている』では16万人以上を動員した日本の現代アーティスト。アジアでの人気も高く、同展は今後、アジア・オセアニア地区を巡回予定。昨年2011年には中国で、「横浜トリエンナーレ2005」で展示されたドローイング77点が収録された作品集『奈良美智・横浜手稿Drawing File』が出版された。退屈ロケットは、中国西の国境近くの街カシュガルの宿でも、それが置かれているのを確認。

奈良美智の日々
http://ynfoil.exblog.jp/


◆艾未未(アイ・ウェイウェイ)
中国を代表する美術家・建築家。2008年北京オリンピック主会場『鳥の巣』の設計者のひとりで、社会活動にも力を入れている。2008年の四川大地震に際しては、中国当局が被害の実態を隠していることから、その被害実態を独自に調査し、自らのブログで報道した。その後ブログは閉鎖されたが、彼の調査はその後も続き、2010年10月、中国当局により自宅軟禁。2011年4月には逮捕される。同年6月に保釈されたものの、脱税を理由に巨額の追徴金を求められ、今も当局とは緊張関係にある。2011年、タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる。日本では、2009年には森美術館で個展開催。2011年にはインタビュー集『アイ・ウェイウェイは語る』、2012年には『艾未未読本』が出版された。

Twitter 艾未未 Ai Weiwei
https://twitter.com/aiww

◆ユニクロ(UNIQLO)
近頃は反日活動関連でニュースになることも多いが、中国におけるユニクロは、主要な都市の繁華街に行けばかなりの確率で見つけることができる。上海、西安、もちろん香港にもある。退屈ロケットは北京と成都の店舗で買い物をした。品揃えも価格も、ほとんど日本と差がない。中国としては珍しく、店員の接客態度が非常に良い場合が多かった。

http://www.uniqlo.cn/

◆大江健三郎、三島由紀夫
都市部の大きめの書店に行けば、日本の文学作品の翻訳版コーナーが設けられていることも多い。もっとも目立つのはやはり断然、村上春樹。次に東野圭吾、そしてよしもとばなな、それから意外なところで渡辺淳一の名前もしばしば見られた。大江や三島といった世代の作家の作品はこれらほどの大衆的認知はされていない。しかしその文学的価値は知られ、知識人層を中心に多く読まれていることは確かだ。

◆宮崎駿
日本のマンガやアニメは、中国でも若者を中心に絶大な人気を博している。宮崎駿の名も知られており、DVDのジャケットに「アニメ界の黒澤明」のようなことが書いてある場合もある(つまり黒澤は当然のように知られている)。退屈ロケットはカシュガルの小さな書店でも宮崎駿カット集のような分厚い書籍を発見したが、大きな字で「スタヅオヅブリ」と書かれてあり、正規にジブリの監修のもと出版されたものなのかどうかは甚だ疑わしい。


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■ 旅日記【ロケットの窓際】 004 北京→上海
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 縮尺の感覚がおかしい。地図を見て、現在地を確かめて、さてと周りを見回す。その間を繋ぐ感覚が、なにか狂っている。住所を頼りに、道行く人に尋ねて回る。それもうまくいかない。

 考えてみれば、地図と足を頼りにしっかりと目的地を目指すのは、旅が始まって以来ほとんど初めてに近い。タクシー、鉄道、そして地下鉄。言ってみれば、ほとんど日本と同じ感覚でいられる移動ばかりだった。

 久しぶりに触れた夜の肌寒さに、初めて異国の空気を感じる。ここは中国で、僕らは外国人だった。そんなわかりきったことを、僕はパスポートにスタンプを押されて随分してから実感していた。

 時として僕らは、何もない田舎よりも、こんな大都市でより深刻な迷い方をする。道がないので迷うのではなく、道がありすぎて迷うのだ。地下鉄の駅を降りてすぐ、僕らはその場に釘付けになってしまった。

 目指していたのは知人の住居だ。北京で頼れる人物がいるということが、かえって考えに甘さを生んでいたのかもしれない。僕らは彼の住所しか知らなかったが、住所だけを頼りに目的地にたどり着くなんて、日本でもなかなか難しいことだ。

 それでも僕らはなんとか当たりをつけて、歩き始める。でも足取りには不確かさがまとわりついている。「程度」がわからないのだ。たとえば、〈ずいぶん歩いたから、そろそろ左に曲がってみよう〉だとか。その〈ずいぶん〉をどの程度に見定めればいいのか。

 何しろ何もかもの規模が大きすぎる。道幅も広ければ、人の数も多い。人々の話し声すら大きい。それが僕らの感覚を狂わせる。ある程度進んで道行く人に尋ねれば。もう少し戻れという。その〈もう少し〉がわからない。とにかく戻ってまた誰かに尋ねると、もう少し進めという。それもわからない。

 でも混乱のさなかに、僕らは驚くべき幸運に出会う。十数度目に道を尋ねた相手の住所が、まさに目的地と同じだというのだ。正確に言えば、同じマンション群の別の棟だった。でもその偶然があまりにできすぎていて、僕らは半信半疑のまま彼についていく。先ほどから何度も僕らが往復した道の横道に、彼は入っていく。けれどもその先には、大学しかないはずだった。だからこそ僕らは首をひねって、その前を通り過ぎたのだ。

 でも驚くべきことに、目的地は大学の敷地内にあったのだ。大学の敷地内にマンション群があるなどという話は、僕らの常識を軽々と飛び越えていた。だいたい、住所によれば彼の部屋番号は明らかに十階以上の高層に位置していて、それも謎を深めていた。留学生が住むような住居が、そんなところにあるのだろうか?

 果たしてそれは、存在した。大学の構内にある、二十階規模の高層マンション群で、しかも高級マンションというわけではない、学生マンション風。そこに彼は実際、住んでいた。よかったよかった、自力で見つけるの難しいやろなと思ってて、と彼が温かく迎え入れてくれたあとでも、いまいち状況がつかめない。

 それでも人はすぐに慣れるもので、三日もそこに滞在すれば(僕らは図々しくも、三日もお世話になったのだ。彼の存在なしに北京の生活や取材は、間違いなく成立しなかった)すっかり慣れてしまう。僕らは当然のような顔をしてぎしぎしと音を立てるエレベーターを使い、細い道を通り抜け、駅前にたどり着く。連日の取材を終えれば、すぐにまた移動しなければならない。

 取材の約束以上に僕らを急かしていたのは、ビザの問題だった。日本人には、中国において二週間のノービザ滞在が許されている。逆に言えば、二週間以内に出国するか、ビザを延長するかしなければならないのだ。僕らにはこのあと上海にも予定がある。そうそうのんびりしていられる状況ではなかった。それで、取材の前の時間を利用して次の鉄道の乗車券を買いに行ったりするのだが……。



 中国に住む人々はもちろん、少し旅行するだけの人にとっても、馴染まざるを得ないひとつの言葉がある。生活をしようとすれば、この言葉に何度も触れざるを得ない。それは「ニイハオ」でも「シエシエ」でもなくて、「メイヨウ(没有)」。意味は「無い」である。「ありません」というよりも、「無い」。個人的には、関西弁のイントネーションで発音するのがより的確な日本語訳ではないかと思う。

 あなたが食堂に入り、メニューを選んでいざ注文すれば、非常にしばしばこの言葉が返ってくる。「メニューにあるのに無いとはどういうことだ」などというのは思い上がりだ。メニューにあるのは「ともすればある可能性がある」品々に過ぎないのだ。

 僕らを驚嘆させたのは、その市内に位置する鉄道の切符売り場だった。五元の手数料を追加することで、駅に行かずとも切符を買うことができるのだ。中国の鉄道切符は概して取り難く、僕らは「メイヨウ」を覚悟してはいたが、なんと売り場には切符どころか販売員が「メイヨウ」であった。明らかに営業時間内だというのにだ。僕らは立ち尽くす。カフェに入ってコーヒーが「メイヨウ」だったことがあったが、それに匹敵する驚きだった。しかも僕らはこれから北京大学に取材に行くのだ。時間がない。

 でもやきもきしながら少し待つと、販売員が戻ってきた。切符は幸い「ヨウ(ある)」だ。彼女はその平坦な顔に可能な限りのありったけの表現力で面倒くささを表明しながら、上海行きの切符を発券してくれた。

〈続〉

文・金沢寿太郎

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■ アフタートーク【ロケット逆噴射】 004
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スガ
今週はボニーですね。

寿太郎
ルーランさん。英語名ボニー。

スガ
そうルーラン。だけどぼくらの間ではずっとボニーって呼んでたよね。ルーランて名前は彼女に似合ってるんだけど、ボニーの違和感がすごくて、そっちのほうが頭に残っちゃった。

寿太郎
確かに。日本人はほとんどやらないけど、けっこう中国の人は好き勝手にイングリッシュネームつけたりしますよね。韓国の人も。

スガ
あれってどういう風につけるんだろう。

寿太郎
好き勝手につけるんじゃないですか。
以前、Jutaだって自己紹介したら、イングリッシュネームは何だって聞かれたことある。
英語圏の人に覚えてもらいやすくする、ということかもね。

スガ
それはそうだけどさ。じゃあ寿太郎くんは「イングリッシュネームはなに」って聞かれた時にJohnsonとかにしたんですか。

寿太郎
それね、フィリピンの語学学校でつけろって言われたんですよ、最初。だけどそんなん、恥ずかしいじゃないですかなんか。

スガ
はずかしいというか、途方にくれるかんじ。

寿太郎
Jonathan と言うのも考えたけど。恥ずかしさは波紋でやわらげる!
でもね、いや不思議とそこには韓国の人たくさんいたんだけど、何のてらいもなく英名つけるんだよね。

スガ
それが不思議。みんなイメージがあるのかな。

寿太郎
人気のアメリカドラマとかからつけるんじゃないのか、よくわからないけど。だから色々かぶる。
俺「アイリーン」って名前の韓国人の女の子4人ぐらい知ってるぜ。

スガ
ゴージャス・アイリン。

寿太郎
私、残酷ですわよ。ってそんなんええねん。
ルーランですよ。

スガ
彼女は、んー。中国でああいう子がふつうにいるというのはちょっと意外だったというか。

寿太郎
ああそう! どうして、中国の女の子の典型的なイメージと違うとか?

スガ
すごくつつましい感じの子だったね。

寿太郎
つつましいし、一見控えめだね。同じか。

スガ
おなじ。中国の人って言うと、なんでか押しのつよいイメージあるもんね。

寿太郎
実際こないだも、電車の中で会った日本語できる中国人青年が言ってたな。日本の女性はそれに比べてやさしいとか言ってた。

スガ
日本の女性ってやさしいのかな。中国人は押しが強くて派手好きそうなイメージ?

寿太郎
中国人から見るとそう見えるのかもね。派手好きというのはよくわからないけど。

スガ
なんというか豪華なものな好きそうな。

寿太郎
まあいろんなものの色彩とか、基本ゴージャスですからね。女性に限らず。

スガ
中国人のおしのつよいイメージってなんで刷り込まれてるのかな。
あれ、ラムちゃんて中国人だっけ? あれは宇宙人か。いやらんまのまちがいだ。

寿太郎
うる星やつらの話? あれは宇宙人だっちゃ。ていうか、まあ基本押し強いですよ。

スガ
まあそうなのかもね。じゃあルーランみたいな子はやっぱりあんまりいないのかな。

寿太郎
うーん、ちょっと本編には盛り込めなかった話でね。両親から「もっと大声で自己主張しなさい」みたいなことを言われたけど、自分はあんまりそういうのは好きじゃなかった、というのがあったね。

スガ
あーたしかに。ルーランは声もあんまり大きくなかった。

寿太郎
でもそこで両親に従わずに自分を貫くってのは、芯が強いですよね。

スガ
うん、芯の強さを感じる子でもあった。それに自分を大きくみせようとしない感じで、アートとかに興味があるというから「どんな人が好き?」って聞いたんだけど、奈良美智以外には好きな人として固有名を出さなかったのが印象的で。なんというか、好きだと言うのはほんとうに好きなものについてだけ。という感じがしましたよ。

寿太郎
ああ、それはそうですね。なんというか、自分の範囲をはみ出さない。自然体で等身大、みたいな部分は感じた。

スガ
そう、それが新鮮でした。

寿太郎
なるほどね。

スガ
あと彼女の部屋だけど、ものすごいコンパクトにまとまってたよね。ほとんど机のまわりだけ。服とかどこにあったんだろう。

寿太郎
まとめざるをえないほど狭いスペースっていうのもあるかもしれないけど。服は別に共同で使うクローゼットがあるんじゃないの。
正直女子寮だということで緊張したり気を使って、あまりまじまじと観察できなかった。

スガ
日本で女子寮って見たことある?

寿太郎
いや、ないかな。

スガ
ぼくもないんだけど、どうなんだろう。あんなもんなのかな。
女子寮にお住いの皆様からのお写真、お待ちしております。

寿太郎
お待ちしております。
ただね、あんまり夢見るもんじゃないという話はあるよ。

スガ
いやそれはそうでしょうけど。でも夢見ちゃうよね。

寿太郎
異性の目がないとどんどん酷いことになるんですよ、我々の中高時代から推して知るべしですよ。

スガ
ああ。でも彼女の部屋というか机、ディテールを見ていくとけっこうかわいいものが飾られてたりするんだよね。

寿太郎
そうそう。それはたぶん本当にこだわりがあったり、好きなものなんだろうな、というもの。

スガ
壁に貼られてる写真がさ、なんかすごくストーリー性を秘めてる感じで気になりましたよ。

寿太郎
そう。単に友達との思い出、とかじゃなくて、たまに奇妙な写真とかある。棒人間とか。

スガ
そう棒人間! ていうかマネキンね。木製で関節が曲がるやつ。イラストの練習とかに使う、世界堂に売ってるような。

寿太郎
IKEAで友達が買ってきた、かなんか言ってましたね。

スガ
そのマネキンがお花畑の中でポーズを撮ってる写真とかあって、あれはなんかすごかったな。

寿太郎
なんだか前衛的な。

スガ
マネキンを写真に撮ったりするのもそうだし、彼女は『性的人間』とか本棚にあったし、センスがおもしろくて。

寿太郎
大江ですね。性的人間なんて彼女、どんな顔で読むんだろう。

スガ
って考えちゃうよね。

寿太郎
あのスペースの狭さからいって、気に入ったとか読み返そうというものだけ置いてあるように思うんですよね。三島由紀夫『仮面の告白』、大江健三郎『性的人間』ですからね。あれもう読み終わったものだろうね、というか。

スガ
もっと仲良くなりたかったなあ。というか、もうすこし部屋の中のものを見ながらゆっくり話が聞きたかったけど、今回は撮影時間が15分くらいしかなくて。

寿太郎
さっさと退散しないといけなかった。

スガ
彼女も用事があるようだったし、寮の入り口にはいかついお兄さんたちがいて、のんびりほのぼの撮影会、という雰囲気じゃなかったからね。

寿太郎
目立たないように寮から我々一人ずつ出てきましたけど、最後のスガくんが遅かったので心配しました。カメラとか持ってるし、盗撮しに入ったクセモノだと間違われてお縄となったのかと。あんなところでゲームオーバーにならなくてよかったよ。

スガ
うん、おにいさんたちに連行されなくてよかった。

寿太郎
あのあと、大学構内で食事しましたね。なかなか立派なレストランがあってびっくりした。安いし。

スガ
そうけっこう立派な中華料理屋。中国だとどこも基本中華料理屋だから、中華料理っておかしいか。

寿太郎
ねえ。でも今いるとこにはそう多くないですね。

スガ
カシュガルはもう中華文化もギリギリな感じだものね。イスラム、というかウイグルめし。の方が多い。

寿太郎
中華料理は漢人街に行かないとあんまりないね。
明日中国を出るとこだというのに、もう恋しくなっております。坦々麺食べたいです。

スガ
あー担々麺。まだ言ってるの。ぼくはこの分だと、けっこうイスラムめしもいける気がするな。
羊どんとこい。

寿太郎
羊don'tこい。

スガ
うまいこと言いやがる。

寿太郎
いや羊好きですけどね、ただ奥歯に挟まるのが困る。

スガ
あーあれは困る。

寿太郎
あれほんと取れない、鶏肉とか比じゃない。

スガ
昨日は15分くらい歯ブラシ使って格闘して、やっととれた。2年に一度くらいの盛大な挟まり方だった。

寿太郎
それは盛大だ。俺もそれに悩まされた挙句、こないだなんか歯が全部抜ける夢見ましたよ。

スガ
ああそんなこと言ってたね。きみはこの間じっさい、歯が欠けてたもんね。やばいよ。
欠けたってかとれたの?

寿太郎
いや、あれは歯ではなかったようにも思う。

スガ
だといいんだけど。

寿太郎
とにかくこのあたりに来て急に、爪楊枝をレストランでよく見るようになった。

スガ
そうですね。
今日でカシュガルともお別れだから中華料理ともおさらば。
これからは毎食奥歯に肉がつまるんだよ。

寿太郎
でもないと思うけどね。中華料理わりとどこにでもありそうだよ。
まあ、でも羊肉食うときには気をつけましょう。

スガ
気をつけましょう、といっても気をつけようがない。
前歯だけでかむのか。いや、それはちょっとおもしろいな。
こんど前歯だけで羊肉食べてみよう。

寿太郎
そんな小動物みたいな食われかたして羊も気の毒に。

スガ
まわりのイスラム人も羨ましくなって真似するかもしれない。

寿太郎
とりあえず俺はまったくうらやましくない。
無遠慮に無反省にダイナミックに噛む、みたいなことしなければそんなに挟まらないよ。

スガ
そんなものかな。
ともかく今日でカシュガルとお別れで、数日ネットがつながらないかもしれない。
だから今回は、木曜日にアフタートークをしているわけです。

寿太郎
はい、いよいよ未知の領域に入っていきますね。

スガ
いや、ぼくは最初から未知の領域だけども。

寿太郎
まあそうだけど、馴染みのない国という意味でね。
俺も新彊は初めてですよ。

スガ
カシュガル来てかなり異国感がつよくなったもんね。
文明が遠くなった気がするし。

寿太郎
読めない文字が圧倒的に増えたし、耳慣れない言葉ばかり聞くし、そういえばコンビニを一つも見なくなった。

スガ
砂まじりのカシュガル。ぼくはけっこう気に入ってるんだよね。
なんか音がよくて。鳥が鳴いてたりブザーが誤作動してたりお祈りしてたり。

寿太郎
音。

スガ
空気というか風の音もちがうし。
乾燥しててだだっ広いからかな。音のひびき方がちがう気がするんだよ。

寿太郎
ブザーは中国全土で見られましたけどね。

スガ
うん。だけど、自然の音と生活音がまじった時のひびき方が今までと違う。

寿太郎
今日裏通りみたいなところを歩いたけれど、人々の時間の流れ方も違う気がするね。

スガ
あーそうだろうね。だいたい北京時間と2時間ずれてるし。
お祈りも半端な時間に始まるし、違ってて何の不思議もない。

寿太郎
まあそうだけど、システムとか宗教に規定された時間の区切り方ってよりは人々の暮らしぶりからそういうのがにじみ出てるんだよね。人の時間が違うからシステムが違うという側面のが強く感じるな。たとえば漢人と比べて、歩く速さひとつとっても違う、ウイグルの人たちは。

スガ
歩く速度。そうだっけ。

寿太郎
歩く速度は君も異常に速いからね。

スガ
ぜんぜん気づかなかった。
え、それでウイグルの人たちは 漢人より速いの?遅いの?

寿太郎
遅いよ。スガ>漢人≧俺>ウイグル人

スガ
そうかぁ。でも寿太郎くん、なんか荷物が多い時に限って速くない?
だから「寿太郎くんは歩くのが速いなあ」って思ってた。

寿太郎
荷物が多いときっていうのは、乗らなきゃいけない電車の時間が決まってるときだろう。そういうときに限って、何十分も遅れて準備を終える人がいるから速く歩かないといけないんですよ。

スガ
ああなるほどねえ。

寿太郎
君はどうでもいいときだけ異常に速いんだ、間違っている。

スガ
そうかもしれない。また来週。

*10/31 カシュガルにて

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編集後記:退屈なしめくくり

冒頭で触れたFacebookページでは、Webサイトやメールマガジンのお知らせのほか、退屈ロケットが世界各地で撮影した記念写真や、ふたりの旅先での「ふつうのくらし」を写真でおとどけ。男ふたりのむさくるしい写真ではありますが、旅先でも日本人の生真面目さ、礼儀正しさを忘れずに、撮影にのぞんでおります。

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また、このFacebookページでは皆さまからの「ふつうのくらし」写真の投稿を募集しております。本人にとっては「ふつうのくらし」でも、視点が変われば、可笑しかったり、発見があったりするもの。投稿を頂いた方のお宅に、もしかしたら将来、取材に行く…なんてこともある、かもしれません。皆さまや身近な方の「ふつうのくらし」、お待ちしております! もちろんWebサイトやメールマガジンの感想も、ぜひ書き込んでくださいね。

…と書いていたら、宿の主人の友達が、ウズベキスタンの首都、タシュケントまで車で連れて行ってくれるとかで、今すぐに荷物をまとめなくてはなりません。今日中につけることを祈りつつ、行ってきます!

スガタカシ


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