スガ
はい、えーと今週は?
寿太郎
今週は、いろいろな人からいただく「そもそも」な感じの質問です。最近読者の方も増えたみたいだし、改めて。「どうしてこのプロジェクトをしようと思ったんですか?」という。
スガ
そうね。世界一周の旅そのものは、旅が好きな寿太郎くんがもともと考えてて、飲んでる時にたまたまヒョイッと誘われたぼくが、なんかノリで二つ返事でオーケーしてしまって。ということだったけど。
寿太郎
ノリでしたね。完全に。
まあ元々僕のほうは旅がけっこう好きで。見たことのない場所もあるし、行ったことのない国もあるし、ということで。あと移動自体がすごく好きなんですよね。バスとか船とかでちょっとずつ動いていくのが。
スガ
たしかに中国の電車は楽しかった。アフリカでもこれから長い電車に乗ると聞いて楽しみ…なんだけど。えっと話を戻すと。
世界一周するのはいいけど、ぼくはけっこう飽きっぽいからふつうに観光するだけだと飽きてしまいそうだな、と思ってなにかやろうともやもや考えはじめて。
で、寿太郎くんから世界一周しようという誘いをもらったのは震災があった年でもあって、漠然と「自分は日本でこの先も暮らしていくのか」とか考えることがあったり、あと、日本の中でも日常が、例えば東北と関東と関西で分断されてしまった感じもあったり。知人でも関東から関西に戻る人もいたし、海外に逃げる人の話も聞いたし。その辺のことがわりと切迫して感じられてたから、今海外を旅するなら、その辺とどういう折り合いをつけるんだろう、と。
そういうことをモヤモヤ考えてる間に、たまたま『空間のために』という本を読んだら「日常が荒廃している」というようなことが書いてあって、なにかピンとくるようなところがあって。それで、世界の「日常」をテーマに旅をしたらどうだろう、と。
寿太郎
そのへんの「日常」についての感覚には近いものがあって。旅は好きだけど、俺も「旅をして非日常から刺激を受けて」という通り一遍の感覚が好きだったわけではないんだよね。自分の日常をわざわざ旅の中に異物のように持ち込んでみたりとか、旅の感覚をわざわざ自分の日常に引きずってみたりとか、そういうふうに混沌としていく感じが好きというのもあって。変わったものを見に行くのではなくて、逆に異物としての自分が、普通の日常を普通の眼差しで見る、みたいなことをしたいとは思った。
それから震災についてだけど、これは語弊のある言い方かもしれないけど、震災の映像なんかを見たときに旅と似た感覚を味わったんだよね。「リアル⇔虚構」の関係と「日常⇔非日常」の関係が一致しないようなズレた感じ。その正体を考えたときに、日常がダラダラと流れ出していくようなイメージが浮かんで。世界の日常の流れ方に自分の日常を同じ高さで流れ込ませてみたらどんな感じだろう、などと思ったりした。とても観念的でわかりにくい説明だけど。
スガ
んー、日常がダラダラと流れ出すっていうのはどういう?
寿太郎
むずかしいんだけど、端的に言うと、日常の質そのものは変わっていないんだけど、外的な要因によってその保障がなくなってしまって、液体が流れ出すように日常というものが散逸していってしまう、というような話。震災のあとで、被災地以外では一見変わらない日常生活が送れているんだけど、それでも何かがおかしくなっている、みたいな状況を指してたとえばそういうイメージを持ったということです。短い文では説明しにくいね。
スガ
でも、日常が一見変わらないようでいて、なんかちょっとおかしい、というのはたぶん震災のあと、多くの人が感じていたことだと思うんだよね。自分たちのコントロール出来ないコワイもの、特に原発とかがそうだけど、ドーンと目の前につきつけられてしまって、見て見ぬふりして生活を続けていても、ちょっと無理があってよそよそしくなるというか。どこかぎこちないかんじ。
まぁそのへんが Biotope Journal が世界の「ふつうのくらし」にこだわっている理由で。世界の「ふつうのくらし」とつながることは、おかしくなってしまった日常を、もう一度編み直したりしようとしたときに、ひとつの方法かもしれない、と。
寿太郎
そうですね。また来週。
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