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こんばんは。退屈ロケットのスガタカシです。本日は二度目のイスタンブール! 皆様いかがお過ごしですか。

今週のBiotope Journalは恒例の「空間と人」ヨーロッパ第2弾、ということでドイツ、オランダ、スペインを、毎日1キーワードで、お伝えしました。今週は2日がかりの「日本の家」レポートもあれば、5ページに渡るベルリン音楽レポートあり、アムステルダムのセックスレポートあり。かなり読み応え(書き応えも…)のある1週間でした。どうぞお見逃しなきよう!

>EAT in Western Europe - 西欧で食べる

>TRANSPORT in Western Europe - 西欧で移動

>RENOVATE in Germany - ドイツでリノベーション 1/2

>RENOVATE in Germany - ドイツでリノベーション 2/2

>LEGEND in Europe - ヨーロッパの偉人

>MUSIC in Berlin - ベルリンの音楽シーン

>Legality in Amsterdam - アムステルダムの合法

さて、今週のメールマガジンでは、ベルリンでシュナイダーTMを紹介していただいたばかりか「Music in Berlin」の記事を書いていただいた小塚昌隆氏のレポート。読んでいただくとすぐに分かりますが、小塚さんはなんだかびっくりしてしまう方。それでは、お楽しみください!

Biotope Journal リポート #024|小塚昌隆

Wikipediaでは、なにしろあらゆることを調べることができる。そしてWikipediaの項目に名前のある人物ならば、程度の差こそあれ世に名前の出ている有名人ということができるだろう。そういう意味では、小塚昌隆氏もそのひとりだといえる。けれども彼の場合、いったいどういう人物なのかということはその記事からはほとんどわからない。冒頭の文章がこうである。「小塚昌隆(こづか まさたか)は、日本の会社員、ミュージシャン、コントラバス奏者」。会社員という肩書きが筆頭に紹介される人物項目も珍しいのではあるまいか。この記述はいささか正確さに欠ける。生活の形態を変えていく彼の情報は、単なる客観情報であっても、正確に記すことが難しいのだ。

ドイツの首都、ベルリン。ここに小塚氏が暮らしていると聞き、伝手を頼ってお会いすることができた。待ち合わせの駅にほぼ時間通りに現れた小塚氏は、日本人の姿をそう多く見ないこの場所にあって、しかし不思議と浮いている感じがしない。ドイツに移り住んで2ヶ月目だというのに、彼は既にこの土地によく慣れ親しんでいるような雰囲気だ。

もっとも、溶け込んでいるというのとも少し違う。小塚氏どころか、ドイツ人さえ「溶け込む」ことは難しいのではないかという特異な地域だ。この地の名前はクロイツベルク*。型にはまらないあらゆる種類のカウンター・カルチャーがそこらじゅうにはみ出して、はみ出す勢いの摩擦が一種異様な熱気を放っているような地域だ。バーやクラブ、賑わう路上のケバブ屋、おそろしくクオリティの高いグラフィティ・アート、ファッショナブルな店やカフェ。混沌としていて、それでいてお洒落でもある。この地域の一角にあるアパートメントで、小塚氏はルームシェアをして暮らしている。同居人はセルビア出身の、骨董商の男性。様々な国からやってきた様々な人が、ここにはいる。

「ここではもう何もできない」

小塚氏は、1969年兵庫県出身。灘高校*を卒業して東京大学に入学したと聞けば、絵に描いたようなエリートを想像する向きもあるかもしれない。フランス哲学を専攻していた彼は、けれども途中で大学をドロップアウトしてしまう。ここではもう何もできない、自分は音楽がやりたいのだと考えて中退に至ったあたりの事情を、次から次へと煙草を灰にしながら話してくれる。

東大駒場寮にいた頃、寮祭の委員長を務めた。やらされたのだか、それとも自分が本当はやりたかったのかわからないけれど、と彼は言う。様々な企画をする中で、じゃがたらの江戸アケミやサックス奏者の篠田昌已*らと知り合うことになる。もともと音楽をやっていて自主制作テープなども作っていた彼は、その頃ちょうど大学を辞めて音楽をやりたいと思っていて、その繋がりからオルケスタ・デル・ビエント*に加入することになった。

オルケスタ・デル・ビエントは京都大学西部講堂などを中心に活動していた。この場所は小塚氏にとって特別な、あこがれの場所だったのだという。表現の自由を体現し、自治に基づいて人びとが表現活動を行うこの場所で、小塚氏も演奏をするようになる。ちょうどこの頃出会い、先ごろ別れてしまった元奥さんとの思い出も交えながら彼はその頃のことを話してくれた。

なお、京都大学西部講堂は今も現役でその歴史を紡ぎ続けている。この特異な施設の歴史についての概説を、近年のイベントにかかわった小山真帆さんに寄稿してもらった。


京都大学西部講堂とは、明仁親王(今上天皇)の誕生を記念し、それから4年後の1937年に建築、1963年に現在の場所に移築された京都大学構内の講堂。一部が京大学生サークルの部室として使用されるほか、演劇・映像・音楽などのカルチャーイベントを行うキャパ1000人程度のホールを有する。学生運動まっただ中の1974年以来、一貫して西部講堂連絡協議会(西連協)によって自主運営・管理されており、ホールの使用規定は特になし。京大生以外にも開かれた自由な表現の場の象徴として、現在も百万遍南で異様な存在感を放っている。

とくに京都の音楽シーンを語るうえで避けては通れない西部講堂。「東の日比谷野音、西の西部講堂」をロックの聖地とする声も多く、内田裕也、PYG(沢田研二、萩原健一ほか)、村八分、頭脳警察などが出演した定期イベント「MOJO WEST」をはじめとして、1976年のフランク・ザッパ&マザーズの来日公演、1979年のトーキング・ヘッズ来日公演など、数々のライブが伝説として語り継がれている。また多くのミュージシャンに愛された場所でもあり、1995年には老朽化した屋根の修理費用(大学側は一切費用を負担しなかった)を集めるために、忌野清志郎、憂歌団、BO GUNBOSなどがノーギャラでイベントに出演したという。警備員の監視なく、アルコール片手に踊り、音楽を楽しむ場所を自分たちの手で残すこと。自由を求めて西部講堂の存続のために尽力した人々の熱は、京都の音楽シーンに携わる者に特別な負い目を感じさせる。

自分たちの好きなことをやる。稼ぐことを目的としないアマチュア精神を讃えた西連協の影響は大きく、京都にはD.I.Y.イベントの文化が息づいている。Limited Express (has gone?)のJJら主催のBOROFESTA、学生主催のみやこ音楽祭(惜しまれながらも2011年に終了)、くるり主催の新イベントWHOLE LOVE KYOTOなど。何でもありの一見ゆるい空気のなか、ここで今鳴っている音楽を感じる覚悟がお前にはあるのか? と刃物を突きつけるような西連協のDNAは確かに引き継がれている。

【参考文献】音読 創刊号特集「京大西部講堂 京都には、ロックの聖地がある」音読編集部(2010/9/15発行)http://www.otoyomi.com/

文・小山真帆

小塚氏がここで活躍したのは1990年代初頭のことだった。当時はバブル華やかかりし頃で、ウッドベースをホテルで演奏してお金を稼ぐこともできた。ところが、バブルの崩壊によってそうした仕事は激減してしまう。既に結婚していた彼は稼ぐために様々な方策をとった。そのひとつが新しい楽器の習得。それはなんと、雅楽に用いられる龍笛だった。これにより、神前の結婚式などで越天楽なんかを演奏する仕事を得ることができる。彼はこの仕事を、1989年から99年ごろまで、およそ10年ほども続けていた。でもこれは土日だけの話。平日に彼がしていた仕事というのが、またぶっ飛んでいる。

「興味があったら、まずそこに身を置いてみるんです」

小塚氏が働いていたのは、ビデオ屋の店長としてであった。ただのビデオ屋ではなく、アダルトビデオを主に販売するフランチャイズのチェーン店「ビデオ安売王」。今や屈指のAVメーカーに成長したソフト・オン・デマンド*と同じ会社の傘下にあった。

ここで彼は、なんと東京都内全店舗中ナンバーワンの売り上げを記録することになる。売り上げアップのために彼が行った画期的な工夫というのは、今ではあたりまえになったジャンルごとの分類(お姉さん系だとか、ブルセラだとか、SだとかMだとか)。これを他に先駆けて行ったのだ。加えて彼は、データベースを作り上げ管理することが得意だった。これにより、売り上げを的確に把握し、分析し、伸ばしていったのだ。

でも彼は、転職を考えるようになる。子どもも成長して小学生になっていた。「お父さんの仕事は何かって聞かれて、エロビデオ屋の店長っていうのもかわいそうだからね」と、彼は冗談とも本気ともつかないような顔で言う。

そのあとは、本格的にエンジニアとして仕事を始める。ソフトバンク、サイバーエージェント、そしてメガバンク、yahooの広告など様々な仕事を彼は手がけてきた。彼の異色の経歴の中にあってもっとも普通な、一般的なサラリーマンとして働いていた時期のことだ。「楽器も弾けるサラリーマンでした」と彼は言う。

でも面白いのは、彼の態度が稼ぐために仕方なしにエンジニアをやるという雰囲気ではないことだ。彼には独特の哲学があって、それに基づいて他人にはできない仕事をやってのける。たとえばプログラミングについて、特にインターネット広告のプログラミングは「心理戦」なのだと彼は言う。顧客の動きがどのような心理に基づいているのかということを読み解き、それに対応したプログラミングをしなければならない。だからプログラミングは決して「理系」的な作業というわけではなく、哲学科だった自らの知識を役立てることのできる場面は存分にあるのだという。そうした考えかたに基づいて、他人には書けないものを書く。ここにはプライドを持っている、と彼は頷く。

小塚氏は基本的に、二言目には自分を卑下するような言葉を挟みながら語る。「大したもんじゃないです」「ろくでもないっすよ」などなど。しかし大したもんであるかないかとか、ろくでもあるのかないのかということを飛び越えて、彼の経歴には驚くことばかりが詰まっている。寿司を握っていたこともあるとか、陶芸をやっていたこともあるなどという話まで飛び出してくるから、話を聞けば聞くほどに、彼がいかなる人物なのかということがますますわからなくなってくる。しかも、様々なことに手を出しては、人並みを遥かに超えたレベルでそれらをやってのけてしまうのだ。「変なオッサンなんですよ」と自分を評する彼の言葉だけは、確かにその通りかもしれない。これほどユニークな人物には、なかなかお目にかかることはできない。そう率直に感想を述べると、「面白いといえば面白いのかもしれない、本人は必死なんですけど」。

「興味があったら、まずそこに身を置いてみるんです」という彼が今取り組んでいる新しいことというのは、もちろんドイツでの暮らしであり、そしてドイツ語の学習だ。彼は現在、毎日朝から午後までを語学学校で学生として過ごしている。

「それを知りたい、知るまではここにいたい」

なぜドイツなのか。それはもちろん、ドイツの音楽に魅せられたからだった。小塚氏は1年前に初めて、旅行者としてドイツを訪れた。1〜2週間の滞在のうちに、彼は好きなミュージシャンを追いかけて回り、実際に話をして仲良くなってしまう。マーシャ・クレラ*イッツ・ア・ミュージカル*。彼らは小塚氏の催した寿司パーティーにまで来てくれる。「お父さんは離婚して寂しかったから、彼らに優しくしてもらって、ここに住みてえって思いましたよ」と彼は、また冗談とも本気ともつかないような言い方をする。たぶんどちらも本当なのだろう。

音楽を別にしても、彼にはドイツ語を学びたいという思いが昔からあった。彼が大学で学んでいたのはフランス哲学で、ちょうどその頃はポストモダンという言葉が飛び交い、浅田彰*が大ブームを巻き起こしていたような時期だった。その中でドゥルーズ/ガタリだとかアルチュセール、フーコーなどを読むのだけれど、突き詰めたところにはやはりニーチェやヘーゲル、フロイトといったドイツ哲学を形成する名前が出てくる。いつかそれらをきちんと読みたいとは思っていた。子どもも大人になったし、離婚していい機会だし、ドイツ語勉強するか、となったわけだ。

小塚氏はもちろんコントラバス奏者だし、また龍笛奏者でもある。でもドイツにおける彼のミュージシャンたちへのコミットのしかたは、「演奏する者」というよりも「伝える者」としてのそれだ。若い頃からミュージック・マガジン*等に文章を書いてもいた彼は、現在はドイツのミュージシャンたちを中心に取材をしては、それらのライブ等のレポートをBARKS*に寄稿している。こうしたインタビューにおいてきちんとドイツ語で話を聞きたいというのも、ドイツ語を学ぶ大きな動機のひとつだ。もちろん英語でコミュニケーションはとれるけれど、ドイツ語でなければわからないことがある。単なる批評家ではなくて、一緒にちゃんとシーンを盛り上げていくという姿勢でミュージシャンたちと向き合っていきたい、と彼は語る。

プレイヤーとしての血が騒ぐことはないのですか、とたずねてみる。オルケスタ・デル・ビエントの後にも、彼はたとえばミュート・ビートの松永孝義*に師事するなどして、一からその技術を磨きなおしてきたのだ。すると、また斜め上から答えが返ってきた。なにしろドイツに来たばかりで、コントラバスもこちらで手に入れたばかり。ミュージシャンとしては今後いずれというところだけど、それはともかく俳優としてデビューするのだ、という。俳優だって?

実はイッツ・ア・ミュージカルの新しいビデオ・クリップの中で、歌ってダンスをしているのだという。どうもよく状況が飲み込めないけれど、とにかく彼はなんであれ、まずやってみるのだ。そうしなければ、ミュージシャンたちの中に入り込んでいくことができない。いい記事も書くことができない。

ドイツの音楽文化に特徴的な点として小塚氏が語るのは、いわゆるミニコミ文化のようなものが存在しないということだ。日本にはそういうものが豊富にある。アングラな音楽についてであれ、それなりに情報を集めたメディアが存在する。だいたい日本人は、情報を残していくことについてマメなのだ。Facebookへの投稿ひとつとっても、総合的に見て最もマメなのは日本人。ドイツ人も劣らず緻密そうなイメージがあるけれど、ところが不思議に音楽情報を伝えるメディアはあまりにも未発達なのだという。レコード屋や本屋に行っても、ドイツの音楽文化や歴史について学べるようなものがまったく無いのだ。だから彼には、情報を伝える者としてその部分を担っていきたいという思いがある。

小塚氏が特に惹かれるのは、ある種のドイツの音楽文化から香ってくる、日本でいえば80年代のそれに近いようなテイストだ。イギリスでいえば、ラフ・トレード・レコード*のアーティストたち。日本ならば、じゃがたらが出てきたような雰囲気。それに近似したものが、特に旧東ドイツから登場してきたアーティストたちの中に感じられるのだ。
エレクトロニカはナイーブだ、と小塚氏は言う。「彼らは何故そうなのか、何故そうならざるを得ないのか。それを知りたい、知るまではドイツにいたいんです」。眼鏡の奥で、底知れない何かをたたえているのかいないのか、それもはっきりと悟らせないような彼の瞳が、鋭く鈍く、強く光る。

文・金沢寿太郎

今週の参照リスト

 

《Artists' works》
◆マーシャ・クレラ
> Youtube

◆イッツ・ア・ミュージカル
> Youtube

《脚注》
◆クロイツベルク*
フリードリヒスハイン=クロイツベルク区というのがこの地域の行政区としての名前。フリードリヒスハインは旧東ドイツ、クロイツベルクは旧西ドイツに属するのだが、ともかくこの地域には東西の分裂・統合にともなう空白地帯と、そこに生まれたカオスのような何でもありの開放された空気が漂っている。

◆灘中学校・高等学校*
神戸市東灘区にある全国屈指の名門校。毎年多数輩出する東大合格者の数と、その自由な校風で知られている。そういえば一応退屈ロケットの母校と提携しているという話だったけれど、何をどう提携しているのかはわからず終いだった。

◆じゃがたら/江戸アケミ/篠田昌已*
じゃがたらは70年代末に活動を開始した日本のロックバンド。ボーカル兼リーダーであった江戸アケミを中心に、江戸の死去する1990年まで断続的に活動した。ステージ上での放尿など過激なパフォーマンスのみが取り上げられる向きがあったが、幅広いジャンルの要素を取り込んだ音楽性にも高い評価がなされた。サックスを担当していた篠田昌已は、オルケスタ・デル・ビエントなどにも参加した。

◆オルケスタ・デル・ビエント*
劇団「風の旅団」の劇中音楽を担当したバンド。京大西部講堂や東京の山谷などでライブ活動を行った。参加メンバーは幅広く、前述の篠田のほか、シカラムータの大熊亘、INUの小間慶大など。小塚氏はこうした方々に「可愛がってもらった」ということだった。

◆ソフト・オン・デマンド*
日本のアダルトビデオメーカー。単なるエロ映像でなく、特異な企画による衝撃的な映像作りでよく知られている。テリー伊藤企画の「全裸シリーズ」(全裸でスポーツをするなど)や傘下レーベルの「マジックミラー号」シリーズなど。こうした数多くの企画の中に小塚氏が関わったものもあるとか、ないとか。

◆浅田彰*
思想家・批評家。元京都大学経済研究所准教授で、現京都造形大学大学院長。京都大学人文科学研究所の助手時代の1983年(ちなみに退屈ロケットの生年)に出版した『構造と力』が異例のベストセラーになり、ニュー・アカデミズムのブームを呼ぶ。小塚氏が哲学を学んだ1980年代末は、まさにこの潮流が強い力を持つ時期であった。

◆ミュージック・マガジン*
1969年創刊(創刊当時は「ニューミュージック・マガジン」だった)の老舗月刊音楽誌。海外・国内を問わず幅広いジャンルの音楽を取り扱っている。

◆BARKS*
2000年ごろからサービスを開始した、音楽情報を扱うウェブサイト。作品の洋邦を問わず、様々な楽曲情報やアーティスト情報を日本のリスナー向けに提供し続けている。

◆松永孝義*
MUTE BEATなどで活躍した日本のベーシスト。ジャズ、クラシックなどの深く幅広いバックグラウンドを持ち、多くのミュージシャンの尊敬を集めた。2012年の逝去時には、弟子である小塚氏がBARKSに寄稿している

◆ラフ・トレード・レコード*
イギリスの独立系レコードレーベル。メジャー・シーンに対する批判を背景に、ポスト・パンクやオルタナティヴ系のバンドを多く輩出してきた。代表的なバンドにザ・スミスなど。

旅日記【ロケットの窓際】024 太陽の国、雨の街

ヨーロッパにおけるノービザ滞在の期限にせき立てられながら久々に飛行機で飛んだ先は、マドリードだ。もう時間は一週間ほどしか残っていない。ひとまず、ここスペインがヨーロッパ最後の国ということになる。

 アムステルダムであたたかな春の予感を感じてからは、太陽の国とも称されるスペインがいっそう楽しみになっていた。眩しい日差しと豊かな海産物、トマトにオレンジ、何ヶ月もの期間にわたって固くこわばり続けてきた体を、さぞ効果的に解きほぐしてくれることだろうと思っていた。

 ところが、辿り着いたマドリードの街は雨だった。飛行機からはそれとわからず、空港からの地下鉄を降りて初めてそれに気付いたのだ。どこまで行っても曇り空が着いてくる。この調子でいくと、砂漠へ行っても雨が降るのではあるまいか。

 ただし、ここの空は、あいにくの天気であっても重たくて陰鬱な感じはしない。軽くて幾分シリアスな、マドリードの曇天。細かい雨粒はひそひそと降り続く。少なくとも、中欧での曇り空のように、それが永遠に続くような錯覚にとらわれることはない。すぐに雨雲は去っていき、すかさず太陽が現れるに違いないという予感を、この街はごくあたりまえのように与えてくれる。もっとも、引き伸ばされたその予感は、次の晴天まで一週間も僕らを待たせることになったのだけど。


 全身とバックパックをぐしょ濡れにしながら辿り着いた安宿のレセプションでは、一応チェックインはできたものの、別の建物の部屋に泊まるよう言われる。迷いながら辿り着いたその建物は、いくつものフロアに渡ってドミトリーの部屋が集まっているという収容所のようなものだった。システムはよくわからない。全てがあの宿の持ちものというようにも見えない。どの部屋のどのベッドもまったく同じようなつくりで、まったく同じような居心地の悪さなのだろうが、その所属先はきっと複雑で多岐に渡っているのだ。我々と同じ旅行者のような者もいれば、半ば住み着いているような出稼ぎの長期滞在者もいる。

 八畳も無さそうなスペースに二段ベッドが三つも詰め込まれていて、住人たちは皆巨大な荷物を持っていて、しかも無遠慮にそれをそこらに放り出しているから、部屋にはほとんど足の踏み場もない。同居人たちとあいまいな挨拶を交わしながら、なんとかベッドの上に辿り着く。ごくごく限られた安全地帯だ。

 マドリードの安宿には二軒滞在したのだが、そのどちらにおいても、ドミトリーは異常に狭苦しいものだった。スペースを確保しにくい建築上の事情のようなものがあるのかもしれない。その割に安宿を利用する若者は比較的多い。旅行者が多く訪れるというのもその理由だが、それに加えて南米からやってくる出稼ぎの若者も多いのだ。なにしろ南米では、ブラジルを除くほとんどの国でスペイン語が話されている。またブラジルのポルトガル語もスペイン語に近似した言語で、コミュニケーションは容易だ。だから最も近しいヨーロッパの国として、多くの南米の若者がここスペインを目指すのだ。

 同居人のほとんどはラテン系。とても陽気だ。そのうえここスペインでは、夜が長い。だから彼らはビールを持ち込んでは、夜も更けるまで陽気に飲み続けている。迷惑といえば迷惑なのだけど、とてもフレンドリーだからかえってタチが悪い。つまり、悪気などというものは欠片もないのだ。ただ傍若無人なだけの連中だったら、宿に文句をいうなりして何らかの対応をしてもらおうかとも考えるけれど、彼らはただただ楽しんでいて、そして難しい顔でキーボードを叩いているワーカホリックなこの日本人をも楽しませようとしてくれるものだから、そうもいかない。結局、あいまいな態度でビールの回し飲みの輪の中に加わることになる。

 建物全体を覆いつくす細かな雨音はいっそう部屋を狭く感じさせ、同居人たちの交わす陽気なスペイン語の会話はますますボリュームを増して耳に飛び込んでくる。べつに不愉快な感じはしない。スペイン語という言葉は、意味もわからず聞いているだけで、なんとなくそれを学んでみたいとさえ思うようになる。そのイントネーション、その響きを感じていると、スペイン語を話せるということはきっと楽しいものなのだろうな、と思えてくるのだ。不思議な言語だ。

 彼らはもちろん、ただ陽気に騒いでいるわけではない。あくる日の夕方に、仕事に行ってくるよと出ていったのは、ウルグアイかどこかからやってきた青年だ。どこかの店で、バーテンダーだかコックのようなことをやっている。ここマドリードには、まだ定住するための住所はない。この街で彼が持っているのは、この部屋のベッドというかりそめの寝床、そして不安定なアルバイトの仕事、鞄ひとつぶんの生活用品。そして妙に化粧のけばけばしい恋人だけだ。なにくれと世話を焼いてくれた親切な彼は、マドリードで生活を軌道に乗せることができるのだろうか。僕はスペイン人に聞かされた、この国の経済の深刻な事情のことを思い出す。

 マドリードが晴れたのは、間もなくここを去らねばならないという頃だった。いつものように期限はギリギリ、一日でも遅れれば不法滞在という状態だ。慌しい移動の連続のせいで感慨も散り散りになってしまっている中で、それでも時計は正確に刻み、長かったヨーロッパ生活のひとまずの終わりは、刻一刻と迫っていた。

文・金沢寿太郎

アフタートーク【ロケット逆噴射】023


スガ
やー、困ったねぇ。なんだかアホみたいなことに。

寿太郎
動けずイスタンブール。

スガ
カメラを直すためにわざわざモロッコから飛んできたのに。修理に出そうとしたら彼、またがぜん元気になりまして。

寿太郎
わざとやってるのか、というレベルだね。カメラに馬鹿にされてますよ。

スガ
トルコ技師にも「ノープロブレム」って返されちゃうし。
モロッコでは毎日のように動かなくなっていたのに。
まったくひねくれてるよ。こんな子に育てた覚えはないのに。

寿太郎
子は親に似るというからね、とたぶん多くの人に思われるでしょうね。

スガ
Twitterでぼやいてたらすでにそんなお返事をいくつもいただいて。まったく心外です!

寿太郎
というわけで、再びのイスタンブルなわけですが。前回のイスタンブルとはずいぶん違う地域に来ましたね。

スガ
あ、そうね。
イスタンブールの表参道? もうちょっとカジュアルに渋谷かな。

寿太郎
新市街のあたり。めちゃくちゃツーリスティックな旧市街と違って、もうちょっとローカル的にオシャレな感じの場所ですね。

スガ
怪しい日本語で話しかけてくる客引きにまだ一度も? 会っていないもんね。イスタンブールの若者が沢山いるかんじ。夜歩いてるとクラブから音楽が漏れ聴こえてくる。

寿太郎
怪しい日本語聞かないね。革製品も観光ツアーも絨毯も売られないし、とても過ごしやすいね。安くてフレンドリーなロカンタもあるし。いい場所です。

スガ
このへんにいると、声かけられることもなく、ごくふつうに過ごせる感じ。ロカンタがあるのは大きいけど、そういう意味ではヨーロッパに近いかもしれない。

寿太郎
そうだね。前のとこはもっとアジア的なしつこい客引きが多かった。一応前のとこもこちらも、ボスフォラス海峡のヨーロッパ側ではあるんだけどね。地理的には。

スガ
で、そのBiotopeJournalヨーロッパ編も、まぁあちこち抜けてるけど今週でいったん終わり。今週はドイツ、オランダ、スペインの「人と空間」だったわけだけど。

寿太郎
そうですね。ちょっと飛び飛び、イタリアとかフランスとか抜けてますけど、まあとにかく西欧ですね。

スガ
ドイツでシュナイダーTMを紹介してくれた小塚さんが寄稿してくれたり。
シュピネライをすすめてくれた「日本の家」の大谷さんのインタビューがあったり。

寿太郎
そうそう。そう考えると、日本人ゲストの豊富な週だったね。それぞれに興味深い話がありました。

スガ
そうそう。久しぶりに日本人ゲストが多い。
小塚さんはこのメルマガでもレポートしているわけだけど、ほんとうに、びっくりしたね。
こんな人がいるのか! と。

寿太郎
色んな意味で衝撃的な人物だった。今までに様々なことをやってきていて、その話をしてくれるんだけど、それらを一人の人間の物語の上に位置づけることが難しいぐらいバラエティに富んでいる。わかりやすい文脈というのがなかった。

スガ
ええと、コントラバスと龍笛とビデオ屋の店主とプログラマーと俳優と…あと寿司と陶芸?
自分でも、100の顔を持つ男とか言ってたっけ。

寿太郎
いや、100の特技を持つ男。なんだっけ、男にはたくさん特技がなければならない、みたいなそんな話をされてたように思う。

スガ
あーそうか。すごいなぁ…。

寿太郎
そういう感じですよね。凄いんだけど、ポカーンとしてしまう。

スガ
小塚さんと会ってる時に笑いすぎて驚きすぎて、宿に帰ったらクラクラしたもんね。

寿太郎
そうだね。そういえば寿司がうまかった。そう、SUSHIレポートの回の最後のほうで触れた、唯一まともだった寿司屋というのは、あれ小塚さんと一緒に行ったんだよね。

スガ
ああそうそう。寿司食べながらビール飲んでたらだんだん饒舌になってきてね。なんかおかしな話がたくさん出てきた。
会う前はそれこそWikipediaで知ったじゃがたらの江戸アケミとつながりがあるだとか、オルケストラ・デル・ビエントで活動してたとかいう情報だけだったから、なにかストイックでおっかない感じの人だと想像していたんだけど…。
会ってみるとこれが、思っていたのとはぜんぜん違う方向にぶっ飛んだ方で。

寿太郎
うん。はっきり言って今回の本文でも、小塚さんの人物像のほんの一部分しか表現できなかった。というより、ちょっとお会いしただけの我々には想像もつかないような衝撃エピソードがまだいくつもあるように思う。

スガ
うん、それに「興味を持ったら身をおいてみる」という小塚さんの信条だけど。それもなかなかすごいフットワークの軽さだよ。じっさい、Biotope Journalへの寄稿も寿司屋で酒の勢いで出たような話だったのに、本当にやってくれたしね。

寿太郎
やるといったら恐ろしい速度および熱量、勢いで原稿をあげてくれた。そして小塚さんには何の責任もないけれど、英訳のむまさんに多大なご苦労をかけることになった。

スガ
いやーほんとうに今週英訳してくれたむまさんは、ほんとうに大変だったと思います。小塚さんの大ボリューム原稿はあるし、アムステルダムのセックス原稿はあるしで。

寿太郎
毎度ご負担かけます。ありがとうございます。
あと今回は、京都時代からの知り合いの小山さんに西部講堂について寄稿してもらいました。ありがとうございます。

スガ
あー、そうでした。コンパクトに要点のまとまった原稿だったね。
ぼくぜんぜん西部講堂知らなかったけど、東の日比谷野音、西の西部講堂、て出てきてへえー、と。

寿太郎
うん。西部講堂の何が特殊で面白いのかということは、あの原稿からある程度想像してもらえると思う。僕なんかも京大にいた時分から毎日あそこの前を通ってたわけだけど、まさかBiotope Journalで取り上げるとは思っていなかった。なんだか感慨深いです。
京都に観光に行かれる際には、京都中にまだ色々と残っているああいう感じのところに、ぜひ。しょうもなく観光地化されたところよりも、よっぽど面白いですよ。

スガ
京都とかもう10年くらい行っていないけど、「ああいいう感じ」というのは、京都には多いんですか。

寿太郎
「京都磔磔」みたいな酒蔵を改造したライブハウスとかねー。あとちょっと方向性は変わるけど、書店も。まあ何がどう「ああいう感じ」なのかわからないけど、「恵文社」とか「ガケ書房」とか、面白いとこが多いです。ちなみに恵文社の近くはおいしいラーメン屋が多いです。ああラーメン食いてえ。

スガ
あーそのあたりの書店。お噂はかねがね…というかんじだけど、実はいまだに行ったことはないんだな。
最後にラーメン食べたのはドイツだっけ。うまかった。
ところでヨーロッパ滞在中、ポーランドくらいからアムステルダムに抜けるまで、ずーっと暗かったじゃない。毎日くもりか雪で。

寿太郎
はいはい。

スガ
太陽なんてほんとうにアムステルダムで数ヶ月見なくて。
ヨーロッパの冬ってこんななのかと思っていたんだけど、少なくともドイツでは、今年は過去60年間で日照時間が一番少ない年だったとか。

寿太郎
へええ、なるほど。あれが普通というわけでもないんだね。

スガ
うん…そう、この間どこかでそういうニュースを観たんだけど、あれ、ソースがちょっと見つからない。

寿太郎
まあとにかく、そうだったわけだ。

スガ
そう。太陽拝めなかったのは、そのせいもあるかもしれないので、皆さんもぜひ冬のヨーロッパにチャレンジしてください、と。天気悪いかわりに安いしね。
まぁそれにしても、アムステルダム、スペインに出たらさすがに安心したね。

寿太郎
まあ旅行記の通り、スペインでも雨は降ってたけどね。

スガ
あ、そうね。スペインも雨降ってたけど。
本格的に毎日晴れるのはこのあとモロッコ。砂漠の国なだけあってさすがに、光がすごかった。

寿太郎
うん。モロッコについてはまた次回以降にということで、はい。今週のお便り。

スガ
えーとはい。今週は、東京都にお住まいの、上からマリコさまより、エアメールを頂戴しました。
「生きてる? 洗濯とか、ちゃんとしてるの?」
とのことです。

寿太郎
(笑) いつもありがとうございます。ご無沙汰しております。

アザーン(近所のモスクより)
アーアーアアアーアーアーアアーアー・・・・・

スガ
きましたよアザーン!
今回はいつもより気合入っているようです。

寿太郎
トルコのアザーンは非常に情緒豊かに音階を上から下まで行ったり来たりするから、いいよね。好きです。あと間の取り方がいい。お経っぽくなくて、音楽っぽいんだ。

スガ
歌いあげる感じだね。ええとそれで、まぁ生きているのはご覧のとおりなんですけど。
洗濯ね。

寿太郎
場合によっては厄介な問題だよね。

スガ
今までそんなに厄介だったことあったっけ。

寿太郎
宿に洗濯機とかが無いとね。まあ手洗いして干せばいいという話なんだけど。でも我々は時間がないとかの問題もあって、けっこうそういう場合はランドリーサービスを使ってしまってますね。

スガ
ランドリーサービスとかもう、じゃぶじゃぶ使うよ。
値段は街によってまちまちだけど、コインランドリーに行くこともあるし、クリーニング屋みたいなところが水洗いも頼める場合もあるし。

寿太郎
今後アフリカとかになってくるとそうもいかないケースが増えそうなので、手洗いして干してという方向でやっていこうと思ってるとこです。

スガ
いやでもさ、宿のおばちゃんが洗濯してくれる場合とかもあるじゃない。
面白かったのはモロッコで、川で洗濯してくれる女性がぼくの分までやってくれてしまうこともありました。隣でちょっと洗おうと思っていたのにもう服を取り上げられて、あれよあれよという間に洗われてました。

寿太郎
出たな洗濯ババア。そしてあれよあれよという間に代金をとられるわけだ。

スガ
とは言ってもそういう場合、すごく安いからね。
川で洗濯してもらったのとか、ぜんぶで50円くらい。

寿太郎
まあ川だしね。あと我々の場合、例の記念撮影のための正装というのが無駄にあってそのへん厄介ですね。シャツとか。

スガ
そうそう。
白シャツは袖口とかどうしてもシミが目立ってしまうからね。

寿太郎
そうですね。また来週。

編集後記:退屈なしめくくり

今朝Twitterで、前回東欧の「空間と人」で記事を書いたワルシャワの書店、Tarabukを訪れたという方からメッセージをいただきました。Biotope Journalの記事がきっかけでそこを訪れたなんて言っていただいたなんて、うれしくて参ってしまったのですが、今週は、ほかにも記事に対する反響をたくさん頂きました。寿太郎くんにはひねくれていると言われるぼくも、褒めてもらうとやる気がでてしまうあたり、けっこう単純だと思うのですけど。

さて来週からBiotope Journalはいよいよモロッコ編に突入! そしていったい、ぼくのカメラはどうなるのでしょうか。

今日も懲りずに近くの食堂、ロカンタへ。トルコ語のさよならはギョリュシュリュズ?

スガタカシ