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こんばんは。退屈ロケットのスガタカシです。今週はモロッコの首都・マラケシュから。そして気がつけば明日から新年度。ぼくたちが新年度になってもなにも変わることなく旅を続け…つつ、4月の上旬から中頃にちょっとしたお知らせをするべく、ただいま準備中です。年度が変わっても引き続き、どうぞよろしくお願いします。

さて、今週のBiotope JournalはMBA(経営学修士)コースで学ぶコメディエンヌ、アナ。いま思い返すと彼女には、MBAを目指すお笑い芸人ってどういうこと! と肩書きに釣られて会いに行ったところがあったのですが、会って話してみると、そんな肩書きなんてどうでもよくなってしまうくらい、個性的で、魅力的な人でした。

それでは今週もどうぞ
、お楽しみください!

Biotope Journal リポート #023|アナ

> Web "Biotope Journal" アナ編 マドリード コメディエンヌよ 光を操れ、影を消せ

マドリードはスペインの首都。この街には大都市らしい特徴がある。とりわけ東京と似ているのは、マドリード出身の人を見つけるのが難しいほどに、他の場所からたくさんの人が集まってくる点だ。地方から出てきたスペイン人だけでなく、他国からやってきた人も多い。

なかでも多いのは、南アメリカ大陸からやってきた人々だ。なにしろ、南米の国々のほとんどではスペイン語が話されている*。唯一の例外ともいえるのはポルトガル語のブラジルだが、スペイン語とポルトガル語には共通する部分が非常に多く、意志の疎通は容易だ。そんなわけで、この街には南米各国出身の人びとがたくさん暮らしている。そのなかにはもちろん、留学生たちも含まれる。

マドリードの中心地に近いにもかかわらず、どこか落ち着いた雰囲気をかもし出す、瀟洒ともいえるような一角にそのビジネススクールはあった。大学のような雰囲気とは異なっている。少なくとも、開かれたゆとりある空間ではない。機能は洗練され、学ぶことに純粋に特化されているような雰囲気だ。世界じゅうから優秀な学生がここに集まり、その大半はMBA*を取得するべく勉学に励む。

その土曜日、アナに招かれて学校のラウンジを訪ねてみると、彼女は自習をしているところだった。週末だというのに学生は多い。授業がなくとも学生たちは登校して、自習をしたりグループワークのための議論をしたりしているのだ。

道に迷って遅刻してしまったけれど、彼女は笑顔で迎えてくれた。場所の空気もあいまってのことだが、彼女はとても知的で真面目な空気を醸し出している。事前にYoutubeで確認しておいた彼女の姿*とはまったく異なっていて、ちょっと面食らってしまう。

実は彼女は、学生でありながら、同時にコメディエンヌでもあるという変わった人物なのだ。マドリードにやってきて間もないからまだここでは活動を始めていないけれど、かつての地元ペルーでの舞台の様子は、Youtubeにアップロードされている多くの動画で確認することができる。

彼女の第一印象の中に、ひとつだけ「コメディエンヌらしさ」を感じることができた。とにかく饒舌なのだ。伝えたいことが山ほどあるのに、それに喋りが追いつかないのがもどかしい、というほどの調子で、彼女はとにかくよく喋ってくれた。恋愛のこと、コメディーのこと、そして人生のことについて。

何故コメディーなのか?

学生をしながら音楽をやっているとか、デザインをやっているとか、あるいは演劇をやっているという例は日本でもよく耳にする。でも、コメディー寄りの演劇ならともかく、ド直球のスタンダップコメディをやっているという例はあまり見つからないのではないか。それで当然、何故コメディーをやっているのか、という根本的な質問をアナに投げかけることになる。すると彼女は悩み、言葉をを選びながら教えてくれる。

理由というよりもきっかけならば、明確な出来事があった。それはもう6年も前のこと、ペルーで彼女が経験した手痛い失恋だ。相手の男は、ペルーに留学中のフランス人だった。二人は出会い、恋に落ち、恋人同士になる。けれども彼は学業を終えれば、やがてフランスに帰らなければならない。彼が帰国したあとでも関係は続いていたのだけど、やがて限界が訪れる。彼女はよりによって、Skype*で別れを告げられてしまった。

20歳の彼女はもちろんショックを受け、塞ぎこんだ気分で、泣き明かして暮らすことになってしまう。そんな彼女を救ったのが、Youtubeで目にしたある動画だった。それはコメディーをやっている彼女の知り合いのもので、彼女をそれを見て腹を抱えて笑った。そのうちに、凍りついた自分の気持ちがすっと融けていくのを感じたのだ。

と、ここまではよくある話かもしれない。形に些細な違いこそあれ、青春時代に多くの人が通る道だ。でも彼女はここからが違う。「こんなふうになれたらどんなに素敵だろう、自分にもできるかもしれない」と考えたのだ。思い立ったら彼女はすぐに動く。2ヶ月間ショーの授業を受けて、ネタを考え、彼女が初めての舞台に立つまでには、そう長い時間はかからなかった。最初のネタは「私の彼はどこ?」というものだ。自分を捨てた男を舌鋒鋭く罵り立てる、という過激な内容。彼女は、自らの辛い経験を、笑えるストーリーに生まれ変わらせたのだ。

なぜ音楽や絵画でなくてコメディーなのか、というわかりやすい理由を探すのは難しい。でも彼女は、強烈なまでに説得力のある言葉を口にした。「私がコメディーを選んだのではなくて、コメディーが私を選んだの」。

ワン・ツー・パンチがうなりをあげる

彼女の中には弾かれたようにコメディーへの情熱が生まれ(情熱、という言葉を彼女はよく口にする)、そして舞台への道を歩みはじめることになった。いわゆるピン芸人。ひとり舞台の上で喋り、ときに一人コントのようなことをして笑いを取るという、もっともシンプルで、かつ難しい形式だ。小道具やSEのようなものも使うけれど、必要最低限。彼女はあくまで、話術で聴衆を楽しませるのだ。ネタはもちろん、彼女自身が書く。

インタビューでの語り口にも表れていたのだけれど、彼女は非常に論理的な考え方をする。だからもちろん、彼女のネタの組み立てかたは細やかだ。ネタ作りには様々な原則があって、彼女はきちんとすべてを計算してそれを定めている。

たとえばひとつの哲学として、実際に経験したことだけをネタにする、というものがある。架空のストーリーを思いついて、それを笑いに変えるためにネタを書くということはしない。それは、彼女のコメディーにおける原点に反するものだからだ。ひどい失恋の経験は変わらない。でも違う角度から見ることで、それは笑えるネタになる。つまり、人生にはネガティブな出来事がたくさんあるけれど、見方を変えることでそれはいくらでも笑いに昇華していくことができる。ポジティブな気分で笑い飛ばし、前を向いて歩いていくことができるということを彼女は表現したい。だから彼女のネタは、彼女の経験に基づいていなければいけない。さもなければ、リアリティが失われてしまい、観客がシンパシーを感じることができなくなってしまうのだ。

けれども、最も笑いを生み出しやすい「違う角度」を定めることは、なかなか難しい。だから彼女は様々な方法論でそれを補強する。第一には、とにかく日常では使わないような極端な表現をするということ。過激で結構、いわゆる放送禁止用語も満載で構わない。たとえば、「あの****男*を殺してやりたい。こんな風に死ねばいいんだわ」とか。男性の立場でも、恋人とケンカをしてこんな風に思うことがあるでしょう、と彼女は言う。「『あんな****女*は、誰かにレイプされてしまえばいいんだ!』とか」。…うん、確かに過激だ。そういうネタがどんな層の人々にウケるのかはわからないけれど(でも実際、Youtubeの彼女の動画では、爆笑の渦・拍手喝采だ)。

それから第二に、どのタイミングで何を語るかという構成。これも、とても重要だ。日本で言えば、ネタふりからオチまでの流れといえるだろう。まず初めに一般的な話から始めて、観客にストーリーの方向を理解してもらう。徐々に個別具体的な話をして、観客を引き込む。そして思いもよらない方向から痛烈な皮肉のこもった言葉を浴びせ、笑いをとるというわけだ。これを彼女は「ワン・ツー・パンチ」と表現していた。どこで的確なパンチを打つかということが、何よりも大事なのだ。

コメディエンヌの懊悩

他の学生たちと7人で暮らしているシェアハウスに、アナは迎え入れてくれる。ルームメイトは皆、彼女と同じように南米からやってきた留学生たちだ。それぞれが個室を持ち、そして共有スペースにはキッチンやリビングルームが備えられている。暖かなスペインの陽光が差し込む窓際のダイニング・テーブルで、彼女はなおも色々な話を聞かせてくれる。とても真剣に。

知性に溢れる人が真剣に話してくれるからだろうか、それとも故郷を離れて異国で暮らす不安がどこかに纏わりついているのだろうか、彼女の話にはどこか、張りつめた感じの空気が漂っている。「人生は短い、自分を信じて前に進むことが大事なのよ」と情熱的に語る彼女は、でも一方で、色々なことへの迷いや不安も率直に話してくれる。とても繊細な人物だ、と改めて感じさせられる。

彼女が今悩んでいるのは、自分の将来についてだ。もともとマドリードで学んでいるのは、会計学の知識を身につけて、家業の力になるためだった。彼女の家族はペルーで会社を営んでいるのだが、その事業をより発展させて拡大させていくための知識を得たい。でも、一方でコメディーの道に邁進していきたいという気持ちもある。理想を言えば、あこがれのアダム・サンドラー*のようなコメディアンになりたい。シンプルで、知的で、温かみのあるコメディーを人びとに披露したい。

現状、日々の学業はあまりにも忙しく、こなすべき課題は膨大で、余裕を持って将来について考える時間をとるのも難しい。学校の生徒たちはみな優秀で、しかも競争意識が高い。彼女は時折、バカだと思われるのが怖くて発言を躊躇してしまうことさえあるのだ。

「自分が何を好きで何を好きでないかはわかっているの。でも、自分が何をしようとしているのかはわからない」と彼女は言う。それが率直な気持ちなのだろう。

ところで、可愛らしいエピソードもある。それは今の恋人(そう、あの失恋から6年を経た今、彼女にはちゃんと敵な恋人がいるのだ)と初めて対面したときのことだ。実はふたりは、昨年の7月にネット上で知り合っていた*。でも彼が住むのはマドリードで、アナはまだペルーにいた。彼女がマドリードにやってきたのは11月のこと。そこで初めて、ふたりは直接顔を合わせることができるようになったのだ。

彼女の葛藤は想像に難くない。彼に会えることはもちろん嬉しいけれど、自分がイメージとまったく異なっていてがっかりされたりしないだろうか。写真や動画のやりとり、Skypeでの会話はできるけれど、直接会ったときの印象また違うものだ。結局彼女は、ある晩ほとんどやけのようにワインを飲んで、そのままの勢いでいきなり彼を呼び出してしまった。観衆の前で堂々と過激なネタをやってのける彼女だけれど、そうでもしなければ彼に会うための勇気が出なかったのだ。

もちろん、彼女の心配は杞憂に終わった。今のアナはとても幸せだ。あまりにしっかりと幸せなので、コメディーのネタになりにくい、というところだけは問題だけれど。

コメディエンヌよ 光を操れ、影を消せ

アナの部屋は、実はけっこう散らかっている。ゴミが多いのではなく、物が多いというタイプの散らかり方だ。こういう種類の部屋には、けれども、その主にしか理解できない一定の秩序があるものだ。きっとここには、彼女にとってはもっとも効率的で便利なように、物が配置されているのだ。誰かお節介な人が留守中に掃除をしてくれようものなら、たちまち彼女の生活の秩序は崩れてしまう。そんな危うくて微妙なバランス。

それは彼女自身を象徴しているかのようだった。散らかった部屋でもお構いなしに、気さくに写真を撮らせてくれる彼女。その散らかりかたの中に隠された、神経質ともいえるほどの細やかさ。

部屋にはコカコーラ・ゼロ*の空き缶がある。インタビュー中も、彼女はずっとちびちびとコカコーラ・ゼロを飲んでいた。実は彼女には持病があって、人一倍健康に気を遣わなければならない。不摂生をすれば命にかかわってしまうほどだ。だから脂っこいものも控えるし、お酒もそう多くは飲まない。だからコカコーラではなくて、コカコーラ・ゼロなのだ。とはいえ、本当はそんなものよりも水やお茶を飲んだほうがいい。それはきっと、彼女もわかっているのだ。でも、何かから逃れるみたいに、彼女はコカコーラ・ゼロを飲む。ジレンマだ。それもまた、彼女の姿。

コメディーの作り方について、ひどい経験に違う光の当てかたをして笑いを生み出すという彼女の方法論。これについて、彼女の語ったことが印象的だ。経済が崩壊し、深刻な不景気で職を失った若者がいる。明日食べるものの保証もない飢えた子どもたちがいる。腕や脚を事故か何かで失った人がいる。そんな状況にどこから光を当てようとも、笑い話になど到底なり得ない。根本が違うのだ。だから、私たちが日常で些細な壁にぶち当たって、まるで世界が終わってしまったような気持ちになったって、そんなのは大したことはない。笑い飛ばしてしまうことができるものなのだ。彼女は真剣な眼差しで、そう語った。

母国を飛び出して海を渡り、異国に暮らして学ぶ彼女がいる。でも一方で、マドリードという都会にうんざり気味で、自宅と恋人の家と学校を行き来するだけの忙しい毎日に閉じこもらざるを得ない彼女もいる。ユーモアを交えながら明るく話をしてくれる彼女もいれば、ストレスを乗り越えながら厳しい学業に打ち込む彼女もいる。情熱的で豪快な彼女もいれば、思慮深くて臆病な彼女もいるのだ。矛盾するような性質を、でもぎりぎりのバランスで保ちながら、彼女は前を向く。どちらの彼女も、間違いなくアナだ。普段の彼女と、ステージの彼女がどちらも本当の彼女であるのと同じように。

文・金沢寿太郎

今週の参照リスト

《アナ プロフィール》

 
名前 Ana Romero
国籍 ペルー
年齢 26
職業 学生、コメディエンヌ
出身地 リマ(ペルー)
在住地 マドリード
ここはいつから? 4ヶ月前から
家族、恋人 地元ペルーに家族。8歳年上の恋人がマドリードに。
好きな食べ物 コカコーラ・ゼロ サラダ
自由な時間の過ごし方 恋人と過ごす。忙しくてほとんど自由な時間がない。
好きな○○ M・A・C(コスメブランド)、アダム・サンドラー(俳優)
Ana's works Ana Romero (Youtube)

《脚注》
◆南アメリカの言語
ポルトガル語のブラジル、オランダ語のスリナム等を除いて、ほとんどの地域ではスペイン語が話されている。もちろんこれは、かつての植民地支配の影響。結果、南米の人びとにとっては、言語の壁を気にせずに済む最も身近なヨーロッパの国がスペインということになっている。留学生から出稼ぎまで、多くの若者がスペインに渡る。

◆MBA
Master of Business Administration、経営学修士。日本では専門職学位の過程、もしくは通常の修士課程において取得できる。海外においては社会人を対象とするビジネス・スクール(経営大学院)が一般的で、アナの学校もこれにあたる。

◆Skype
今や説明不要の、ウェブ上での電話/テレビ電話サービス。Skype同士なら通話が無料だなんてよくよく考えれば夢のような話で、現代の遠距離恋愛カップルには欠かせないサービスだろう。ちなみに長期旅行者からすると、安い通話料で各国の携帯電話や固定電話に連絡できる、という点も非常に便利。

◆****男
彼女は"motherf**ker" という言葉を使った。英語圏ではもちろん、原則的に放送禁止。

◆****女
彼女は"bi*ch"という言葉を使った。英語圏ではもちろん、原則的に放送禁止。

◆アダム・サンドラー
アメリカのコメディアン、俳優。劇場におけるスタンダップ・コメディアンとしてキャリアを開始し、やがてその実力が認められてテレビ出演なども増える。やがて多くの映画に出演するようになり、現在ではハリウッドを代表するコメディー俳優のひとり。『50回目のファースト・キス』など。

◆ネット上での出会い
いわゆるマッチング・サービス、日本でいう「出会い系サイト」からいかがわしいニュアンスを除いた感じのものと考えればよいだろう。フレンドリーな彼女は友達も多いのだが、それゆえに異性と出会ってもすぐに友達付き合いになってしまう。そのため、かえってネットで恋人を見つけるほうがうまくいったのだとか。

◆コカ・コーラ ゼロ
2005年より販売が開始されたコカ・コーラ社の商品。コーラの味をほぼそのままにカロリーをゼロにした、というコンセプトの商品で、砂糖の代わりにアスパルテームが使用されている。通常のコカ・コーラに比べ、やや甘みが控えめで炭酸が強い、とされる。

旅日記【ロケットの窓際】023 閉ざされた中欧を抜けて

 デュッセルドルフという地名は、なにかと印象深い。とはいえ、この街について特に何かをよく知っているというわけではない。ただひとつわかることは、ここには多くの日本人が住んでいて、日本人街のようなものがあるということ。そのために、デュッセルドルフという名を目にする機会は他の同程度のドイツの都市よりも遥かに多いのだ。まるでサブリミナル効果のように、この地名は意識のうちにすり込まれている。

 夜も更けはじめる頃に駅を出れば、街にはごみごみと様々な種類の広告が見られる。チェーン店を含む大小の雑多な店舗が軒を連ねる。怪しげな店が、大通りに面した場所でも堂々とネオンサインを明滅させている。あちらからこちらへと、派手にお金が動いている気配がする。資本主義の彩り。西側へやってきたのだという実感は、もはや境界など消え去ってしまった今となっても、やはり感じないわけにはいかない。


 この街へやってきたのはあくまでオランダまでの繋ぎとして。滞在もたった二泊の予定だ。すべきこともほとんどないけれど、せっかくなのだからと日本人経営のラーメン屋や居酒屋へ足を運んでみる。それらの空間は実に、日本そのものだ。安心するとか懐かしく思うという気持ちはもちろんあるけれど、でも感覚が追いついていかなくて、入店してからしばらくは奇妙な感じが続いてしまう。飲食店の店員とはかくも気を利かせるものだったのか。あるいは、ほんの少しの醤油の香りが、これほど食欲を刺激するものだったのか、というようなことにいちいち感心する。

 店の内装は視覚を日本にし、食べ物や酒の味は味覚を日本にし、そして店内を埋め尽くす日本人たちの会話は聴覚を日本語にする。こんな中で酒が回ってしまうと、不思議なもので、やがて完全に日本にいるもののように錯覚してしまう。終電は何時だっただろうか。JRから私鉄への乗り継ぎは。そんなことを考え始めてもおかしくない。

 旅を始めて半年以上が経過したところだった。日本が懐かしくなることはあるけれど、帰りたいと切実に思うことはほとんどない。何だかんだといって、(インチキなものも含め)日本食に触れる機会もしばしばあるし、ひとり旅ではないから日本語を話す機会には事欠かない。だから、表面的な・物質的なところで日本に飢えるということはないのだ。

 日本を懐かしんでいるのは、もっと無意識の部分かもしれない。たとえば街を歩くときの緊張感。頭の片隅でポケットの財布の感覚を常にとらえておくことへの、半ば無意識な神経の使いかた。人に話しかけるときに脳の中で行われる、瞬時の言語的な準備。旅が日常になっているとはいえ、神経の中の日本では使わない様々な筋肉は常にこわばっていて、気付かぬうちの疲労から硬直しはじめている。日本が懐かしいというよりも、ごく自然な感覚で振る舞える日常の体験が懐かしいのかもしれない。たとえば、ぼんやりと考え事をしているうちに、いつもの最寄り駅から家まで辿り着いていた、というような。


 デュッセルドルフから国際バスで向かうのは、オランダのアムステルダムだ。例によって、国境はあっけない。うつらうつらとしているうちにバスはハイウェイを飛ばしていき、GPSを確認して初めてオランダに入ったことを知る、というほどだ。

 やがてバスの車内に陽光が差し込み始める。こんな種類の光はいつ以来だろう。灰色の雲を切り裂いて、光らしい真っ直ぐさで地上に届く光。錯覚かもしれないけれど、温かみさえはっきりと感じるほどだ。冬の雲に閉ざされた中欧をいよいよ越えたのだ、という実感が強くなる。

 アムステルダムでの逗留も、実際はたったの二泊。ビザの問題もあって、すぐに飛行機でスペインに飛ばなければならない。折しも日付は三月に変わるところで、春の予感、太陽の予感がいっそう気分を明るくさせる。まるで幻のようだ。アムステルダムの街のそこらじゅうから漂ってくるマリファナの香りに包まれていると、本当に春だとか太陽だとかいったものがただの幻にすぎないのではないかという気がしてくる。実際それらは、幻のように得がたく甘美なものに思える。奔放でありながら穏やかに整ったアムステルダムの奇妙な秩序の中で、春を待ち焦がれるという行為そのものの贅沢さに、僕は気付いたような気がした。

文・金沢寿太郎

アフタートーク【ロケット逆噴射】023

スガ
おいおい、今日は寒いよ。

寿太郎
昨日は暑かったのにね。暖かくなってきたとはいえ、まだ日照の具合にかなり左右されますね。

スガ
今日は東京もすごく寒いみたいで、Twitterでは、ピクニックしようと思ってた人が悲嘆にくれているのを目にしました。

寿太郎
気の毒に。東京とモロッコは緯度同じぐらいなんですよね。だから割と同じような感覚かも。桜はこっちにはないけれどね。

スガ
桜はないかわりに砂漠とヤシの木とオレンジジュース。再来週からはBiotope Journalもアフリカ入り。いよいよヨーロッパも大詰めですよ。

寿太郎
そうだね。最後のほうはビザの問題があったから、ドイツにいたかと思ったらあっという間に西のほうに移動してしまった。

スガ
オランダなんて2日だけだったし、ベルギー、フランスはとばしちゃってるしね。あとポルトガルも。いくつかの国は戻れるかもしれないけど。

寿太郎
イタリアだとかも飛ばした形になってるね。ギリシャとか、地中海近辺。

スガ
南欧北欧ほとんどノータッチで、西欧もかなりかたよってるし。まぁでも難しかったなぁ。取材しながら3ヶ月で全部回るのは。

寿太郎
ダメですよシェンゲン協定。不便きわまりないね。

スガ
でもシェンゲン協定できる前はヨーロッパも個別にビザ取る必要があったんだよね?

寿太郎
いや、ビザなしで入れた国も多かったからからさほど問題はないんじゃないかな。
一元化されちゃったから問題なんだよね。もっとも、東欧なんかは以前より入りやすくなったと聞くけど。

スガ
というわけでヨーロッパにもどれない間の3ヶ月弱のあいだにアフリカを南下するわけだけど、
今週はマドリードのアナ。マドリードは2人めですね。

寿太郎
うん。アルベルトとはずいぶん違う感じになったので、よかった。それに彼女は、たぶん初めて、その国の出身者ではないインタビュイーだね。ペルーからやってきたから。

スガ
スペインっ子のアルベルトと、ペルーからやってきたアナ。偶然だけど、けっこうコントラストがでたかたち。それでアナだけど…、なかなか強烈でしたわ。

寿太郎
どのへんが強烈に感じた?

スガ
まず、メイクw

寿太郎
ラテン系だからね。

スガ
あと、話のとめどなさ。一の質問すると10の答えが返ってきて、それがいつも彼女の内面的な話とか生き方の話に結びつくという…。

寿太郎
うん、話は確かにそんな感じ。今週の冒頭のあたりにも書いたけど、本当にどこまでもどこまでも喋るからね。それと同時に、とても意識的に自分のことをこちらに伝えようとしてくれていた。

スガ
これまでもう20以上のインタビューしてきたけど、あんなに自分の内面をさらけ出そうとしてくれる人はいなかったからね。
なんというか、自分で整理できていないところまで、整理できていないまま、見せてくれる。
でも逆に、だれでも仲良くなるとそういうところを見せてくれたりするものだから、彼女と話しているとちょっと、友だちの顔が浮かんだりするところはあったかな。

寿太郎
そういう意味でのフレンドリーさは凄かったですね。でも無神経なのではなくて、それどころかむしろとても神経が細かい人だった。

スガ
神経細かいんだけど、どこかしら自分をコントロールしきれていない感じがね。それが彼女の魅力だなと思ったな。ときどき感情とか衝動が迸るかんじ。

寿太郎
まさに。そういう危うい二面性が魅力的でした。本文の繰り返しになってしまうけれど。

スガ
彼女と学校で話していたら、次々に通りがかる友だちから声かかって、友達多いんだなぁ、と思ってたら、いがいと彼氏はネットで知り合ったとか言うしね。現実で知り合うとだいたいただの友だちにしか見てもらえないという話とか、ぐっときたな。
あれ、これ本文に書いてなかったよね?…あ、そうか脚注にあったか。

寿太郎
そう。面白い話だけど本文に組み込みにくくて、脚注にしました。

スガ
でも彼女を紹介してもらったときの最初の疑問。MBAのプログラムをとってるお笑い芸人の女の子、ってどういうことだよ、という謎は残ったよね。いやMBAは家業のためというのはわかったけど。彼女はこれからどこに向かうんだろう、というw

寿太郎
そんなのは彼女自身にもわからない感じだからね。そういうことへの悩みみたいなものも含めて語ってくれたので、とてもよかった。
個人的に彼女は、なんというか精神的な部分でとてもシンパシーを覚える人でした。軽々に言えないけれど、わかるわかる、ってとこが本当に多くあった。

スガ
それは言ってたね。ぼくはシンパシー覚えるところが半分と、なにかしんどそうだなぁという部分が半分。そういえば寿太郎くんに対してぼくが感じるものと、似ているかもしれない。

寿太郎
またお会いしてみたいです。あとスペイン語をちょっとはわかるようになって、彼女のコメディーが理解できるようになりたいねw

スガ
そうね。では今週のおたよりコーナー。

寿太郎
京都府の「円山公園の帝王」様よりエアメールをいただきました。

スガ
円山公園ていうのは札幌にあったけど、京都にもあるんですか。

寿太郎
札幌はなんか京都を基に作ってますよね、碁盤の目とかも。だから関係あるのかもしれませんね、よく知らないけど。はい、それで。

スガ
おーほんとだ。wikipediaによると「戦後、京都市にある円山公園をモデルに造成され」だって。知らなかった。ええとそれで。

寿太郎
「これからアフリカを南下していくということですが、危ない地域などはないのですか? 紛争状態の国も多くあるし、とても心配です」
とのことです。

スガ
この人はなにを心配しているんだろう。危ないに決まってるよね。アフリカだもの。

寿太郎
で、スガくんは具体的に何がどう危ないのかを全然把握してませんからね。

スガ
うん。具体的にどうとか、ほとんど分かってない。盗人が現れれば荷物が危なく、強盗が現れれば命も危ないということくらい。

寿太郎
まずアフリカだから危ないに決まってるというのが偏見だよね。ほとんど問題発言のレベル。現にここモロッコは全然危なくないじゃないですか。東南アジアのゆるい国々とかとあんまり変わらない。

スガ
そうそう。アフリカって言うだけでいまだにすぐ危ないとか言われるけどね。モロッコとか想像以上に安全で。暗黒大陸じゃがたらを期待してただけに、ちょっと拍子抜けしたくらいです。

寿太郎
アラブの春の影響が全然なかったのがこのモロッコだからね。なんでも国王の人望が強烈だとか。
それで、そのアラブの春の影響は確かにあって、たとえば少し前まではトルコからシリア経由でエジプト方面に向かっていくのが一般的なルートだったけど、今はシリアがあんな風だから入れなくなってしまった。

スガ
はいはい。シリアはあんなに平和でよい国だったのに残念だ、って旅人は口をそろえて言ってるよね。

寿太郎
なにしろホスピタリティが凄いと。人びとが本当に親切だという話はいろんなとこで聞きますね。
でも幸いだったのは、エジプトはふつうに旅行できる状況だということですね。今もデモなんかは起こるけれど、常識的な行動をしていればまず大丈夫だとか。

スガ
常識的な行動…。それはどういうことをすると危ないんだろう。

寿太郎
デモがあったり人が路上で集まっているようなところには近づかないとか、そういうことでしょう。あと常に情報収集を怠らない。

スガ
おっ、なんかやってる。ちょっと見てくるわ。
てのは死亡フラグなのか…。

寿太郎
そう。あとATMでお金を下ろしたあとなどに、裸の札が見える状態で堂々と財布にしまいながら歩いていくのはいい加減やめましょう。いつも気になっていたけれど。コソコソやってください。

スガ
あー、それね。旅の最初のうちは気をつけていたんだけど、もう完全に気がゆるんでおりまして。
そこでアフリカですよ。なにか予感に満ちてるね。

寿太郎
そろそろ旅慣れた感じになってきて危ないですからね。紛争とか抜きにしても、確かにケニアやタンザニアなどは都市部の治安は悪いみたい。あと悪名高い南アフリカもあります。ほんとに気を引き締めなおしていくべきとこですね。

スガ
そうですね。また来週。

編集後記:退屈なしめくくり

Biotope Journal、ヨーロッパの「人とくらし」も今週でいったん終了。来週は「空間と人」 西欧編をおおくりします。そしてアフタートークでさんざんアフリカ縦断の話をしておいてアレですが、先週予告したとおり、次の滞在地はぼくのカメラの修理のため、ふたたび飛んでイスタンブール。フライトは明日なのですが、4月1日といえばエイプリルフール。フライトがどんな4月バカを見せてくれるのか、期待に胸が高まります。

ところでマラケシュには有名な屋台街があって、退屈ロケットはここのところ毎晩、さまざまなゲテモノに挑戰。人間てほんとに、色んな物を食べますね!

それじゃ、ビッサラーマ!

スガタカシ