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こんばんは。退屈ロケットのスガタカシです。本日はオランダ、アムステルダムからお届け。ところでぼくたちがビザなしでヨーロッパにいられるのも、いつの間にかもうあと1週間! ついこの間まで東欧で雪まみれだったのに、もう1週間もしたらアフリカなんて、びっくりしてしまいますね。

さて、今週のBiotope Journalはたくさんのアーティストがあつまるベルリンの街から、ミュージシャン、シュナイダーTMのおはなし。彼のインタビューでは個人的に好きなバンドがつぎつぎと話題に出てきて興奮。取材当日は体調がわるかったシュナイダーも、セッションになるととたんにいきいきとした顔をみせてくれました。

それでは今週もどうぞ
、お楽しみください!

Biotope Journal リポート #019|シュナイダーTM

> Web "Biotope Journal" シュナイダーTM編 ベルリン 音は溶け合い壁を越え

ベルリンは何の街かといわれれば、「歴史の街」であり、そして戦後には「壁の街」だった。では壁の崩壊したあと、この街はいったい何の街になったのか。どんな街にも様々な側面があるから、一言で表してしまうことはもちろん難しい。でも特にこの街は、そんな中でもほんとうに複雑だ。
東西統一後、東から西へ、人やモノが多く移動した。その結果、ここには「何の街でもない」という状態になった場所が多くあった。そこに流れ込みはぐくまれてきた文化が、たとえば新しいファッションであったり、音楽だったりするのだ。特に音楽については、常に新しい何かが生まれうごめいている場所として、この街はよく知られている。ロンドンやニューヨークが商業主義にスポイルされるなどして、ある面では音楽の街としての魅力を失いつつある中、ここベルリンには今もなお世界じゅうから様々なミュージシャンが集まり、刺激を与え合い、また新たな刺激をリスナーに対して創り出しつづけている。そんなひとりに、小塚昌隆氏*がいる。1990年頃より音楽活動を開始し、オルケスタ・デル・ビエントなどで活躍してきたミュージシャンだ。彼は今、ベルリンに移り住み、ドイツ語を学びながら様々な活動をしている。webサイト7日目の更新にもちらりと登場していただいた彼は、実に驚くべき、また謎多き人物なのだが、その詳細は後日改めてお伝えすることとする。

ともあれ、小塚氏が紹介してくれたベルリン在住のミュージシャンが、シュナイダーTMだった。すでに幾度か訪れているという小塚氏に案内されて向かった彼の家は、プレンツラウアー*と呼ばれる地区にあった。

Schneider TMとベルリン

ミュージシャンといえば、もしかすると気難しい人物なのかもしれないという心配もしてしまう。エレクトロニカという種類の音楽からは、なんとなく神経質なキャラクターというイメージも浮かんでしまう。けれども、彼の人柄はまるで違う。急なインタビューのお願いではあったが、自室に快く招き入れてくれる。けれど握手をしてはくれない。というのも、彼は今インフルエンザにかかっているのだという。うつしてしまうことを心配してくれたのだ。そもそも、そんな状態でインタビューを受けてくれたことが彼の優しさを表している。彼は体調のせいで写真写りが悪くなることを心配していたけれど、撮った写真を見てみると、彼の音楽と同じように、しっかりクールに映っている。
さて、それはともかく彼自身のことだ。Dirk Dresselhausというのが彼の本名で、シュナイダーTMとは彼のミュージシャンとしての名前であり、プロジェクト名だ。あえてジャンル分けをするなら、テクノやエレクトロニカといった音楽というのがわかりやすい。日本での活動はまだそれほど盛んではないから、日本のエレクトロニカ・ファンの中では知る人ぞ知る存在、という感じだ。彼は今、ベルリンを拠点に活動している。

彼はもともと、ドイツ北西部の出身。彼が生まれたときにはまだドイツは東西に分かれていたから、西ドイツ出身ということになる。故郷のことを「すごく退屈な街」だという彼は、16歳のときに初めてベルリンを訪れる。彼が生まれたのは1970年だから、それはまだ壁が崩壊する前のことだった。それ以来ベルリンが気に入って、彼は今こうして暮らしている。家の近所に専用のスタジオを備えてもいるあたり、ここに腰を落ち着けて創作に向かおうという態度が見える。かつてはツアーのために世界のいろいろな街をめぐったけれど、ここよりも暮らすのに適した場所は見つからなかった。ベルリンは、音楽についてのフットワークを軽くしてくれる。なにより、ここに集まってくる他のミュージシャンとつながりやすいし、また音楽以外のアーティストたちとも刺激を与えあうことができる。

音楽に出会うこと、人に出会うこと

クラブ文化*が盛んだということも手伝って、「ベルリンの音楽シーン」という確固とした何かがあるように言われることが多い。でもシュナイダーTMは、こう言う。「僕はシーンの中にいるというわけではないんだ」。この街では、周りにはたくさんミュージシャンがいて、確かにシーンのようなものができているように見える。でも彼にとっては、ただ彼らとつながることは「しかるべきときにしかるべき人に出会う」というシンプルなことだ。ベルリンという街は、そのシンプルで大切なことを可能にしてくれるのだ。

彼の音楽との出会いは、幼い頃にさかのぼる。「音楽をはじめたのは?」と尋ねると、大真面目に「2歳のとき」という答えが返ってくる。彼にとっては、幼い頃にスプーンで机を叩いたりバスタブを叩いたりして音を出すことが、すでに音楽だったのだ。つまり、彼は物心がついたあとで「これが音楽ですよ」と教えられて音楽を認識したのではなかったのだろう。音楽などという言葉を知る前から、彼は身近なあらゆるものを使って音楽を奏でていて、あとから音楽という言葉を知って、それらが「音楽」と呼ばれることを学んだのだ。音楽は外から聞こえてくるのではなくて、彼の中にはじめからあるのだ。あるいはそれを「才能」と呼ぶのかもしれない。それとも、そんな単純な言葉で表すことのできない、別の何かなのかもしれない。

とはいえ、クラシックギターやドラムを始めた彼は、身近に鳴り響いている音楽に感化され、影響を受けはじめる。両親の聞いていたエルヴィス・プレスリーやビートルズ。ロックンロールとの出会いだ。それで彼は、90年代初頭にはインディー・ロックバンドで活動するようになる。でも、それでは足りなかった。彼はもっと先に行きたかったのだ。そんななかで、Roland606*というお気に入りのサンプラーとの出会いが、彼に大きな影響を与えた。ギターエフェクトとして、ディレイを加え、ディストーションを加え、そんなふうに音をいじることに、彼は夢中になった。 もうひとつの理由として、あたりまえのようなことだけれど、「ドラムはうるさすぎる」という点がある。叩いていると、近隣から苦情が来るのだ。それで彼が使うようになったのが、ドラム・マシーン。その頃彼が、ロックよりもむしろテクノなどに分類されるAphex Twin*などをよく聴くようになっていたこともあり、彼の音楽性は次第にエレクトロ方面へ傾倒していくことになる。

限らず自由な彼の音

「ぼくは『ロック・ミュージックのファン』というわけでもなければ、『エレクトロ・ミュージックのファン』というわけでもないんだ」と彼は言う。もちろん、好きではないという意味ではない。彼の強調するのは、無意味なジャンル分けをして可能性を限ってしまうことをしたくない、ということ。誰かがあとからジャンル分けをする。けれども彼は、ただ音楽に向かって精神を解き放っているだけなのだ。

ジャンル分けがしばしば持つ音楽的偏狭さへの彼の反発は、シュナイダーTMによる最も知られたトラックのひとつ、"The Light 3000"*にも現れている。the Smiths*の有名な楽曲のカヴァーだが、実は彼はその頃、the Smithsが好きではなかったのだ*。この作品は、ジャンル分けをして良し悪しを安直に決めたがるエレクトロ・ファンたちの傾向に対する、一種の皮肉めいたジョークだったのだ。それが世の中に評価されたという点も含めて、この皮肉は大きな成功を収めたといえるのかもしれない。「スミスなんて」と嫌悪したり苛立ったりする人びとは、それにもかかわらず、この作品の完成度の高さを認めないわけにはいかないからだ。

もちろん真摯に、そして一見クールに音楽に向き合っている彼だけれど、一方でこんなふうにいたずらっぽい茶目っ気を見せたりもするのだ。インタビューの間も、真剣な表情で質問に答えてくれる合間に、何度がジョークを挟んでこちらをリラックスさせてくれた。

実際彼は、自らの活動においても「境界を定めない」という自由で開かれた態度を表現している。生活からしてそうだ。彼は仕事とプライベートをきっちり分けてしまわない。家でくつろいでいるとき、料理をしているときに、突然「それ」はやってくる。彼は心を開いて、ただそれを待っているのだ。そして、いざ「それ」がやって来れば、彼は近くのプライベート・スタジオに向かう。そんなふうに彼の生活はとても自然に音楽と結びついているから、ふと耳に飛び込んできた風の吹く音さえ、何かひっかかるものがあれば、すぐさま録音にかかるほどだ。

Schneider TMのもうひとつのプロジェクトに、Schneider FMというものがある。これは、言ってみればフォーク寄りの音楽性の、ソング・ライティングのためのプロジェクト。もっとも、「フォーク」という言葉を使って単純に定義することなどできないけれど。

音が消し去る境界線

Schneider TMの近隣は、アジア系を中心とする外国人が多く住む地域だ。たとえばベトナム人が多い。というのも、東ドイツ時代に友好国だったからだ。この地域は、かつては東ベルリンに位置していたのだ。 彼はそんな環境が気に入っているという。これも"No boarder"のひとつ。彼が一緒に暮らしているトモコさんという女性も、その名の通り日本人だ。彼女はダンサーで、表現活動を一緒に行うことも多くある。音楽のジャンルどころか、表現の方法のジャンルまで彼は軽々飛び越える。ましてや、国籍なんて無意味な話だ。もちろん、それを可能にしているのは、彼の研ぎ澄まされたセンスと、とてつもなく幅広い音楽のバックボーン、なにより音楽への愛情なのだけれど。

トモコさんの存在もあってか、彼は非常な日本びいきだ。日本のバンドのことも幅広く知っている。量はもとより、質についても、生半可な知識ではない。たとえば「裸のラリーズ*」という固有名詞が出てくることには、驚くほかなかった。実際に東京のイベントに招かれてプレイしたこともある。2004年のsonarsound tokyo*でのことだ。このときのことを、彼はよく覚えて…いるわけではない。「実はすごく飲んでいたから、あまり覚えていないんだ」と彼は笑う。部屋にいるときのリラックスした様子、機材を操作するときのクールな表情からは、ライブでの彼のそんな様子はあまり想像できない。でもスタジオ・セッション*で演奏しているときの彼の姿は、そのヒントになるかもしれない。みるみるうちにその空気感が軽やかに加速していき、笑顔もしばしば見せるようになるのだ。これがオーディエンスを前にして進んでいけば、彼はまた違ったプレーヤーとしての顔を見せてくれるのだろう。日本の音楽ファンとしては、再来日のときを待ち望むところだ。「ほかのことはよく覚えていないけれど、僕のコンサートがすごくロックしてたことについてはよく覚えているよ」と彼は言った。

近隣だけでなく、彼はしばしば、ベルリンじゅうを訪れる。場所によってまったく異なる顔を見せるこの街は、今もなお変化を続けている。彼によれば、たとえばクロイツベルク*と呼ばれる地域が今もっともホットな場所だけれど、それも時とともにどんどん変わっていく。ちょうど彼の音楽と同じように。

リスナーは、境界を越えようなどと肩肘を張る必要はない。心の中に境界を持たない彼が、その心のままに放った音楽を心のままに聴けば、世界のどこにも境界なんて見当たらなくなるのかもしれない。

文・金沢寿太郎

今週の参照リスト

《Schneider TM プロフィール》

 
名前 Schneider TM
国籍 ドイツ
年齢 42
職業 ミュージシャン
在住地 ベルリン、プレンツラウアー・ベルク
ここは何年前から? ベルリンには、はじめて来てから28年
結婚、恋人 恋人・トモコさん
好きな食べ物 日本食(特に寿司、とんかつ)
自由な時間の過ごし方 ベルリンのいろいろな地区を歩くこと
好きな映画/監督、音楽/ミュージシャン、小説/作家 ミュージシャン
エルヴィス・プレスリー、リンゴ・スター、ザ・スミス、エイフェックス・ツイン、裸のラリーズ、ボアダムス
映画監督
セルゲイ・パラジャーノフ、アンドレイ・タルコフスキー、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ジム・ジャームッシュ
セルゲイ・パラジャーノフ、
Webサイト Schneider TM website
MWM
SoundCloud(Schneider FM)

《脚注》
◆ 小塚昌隆
コントラバス奏者、ベーシスト。1990年代初頭、東大駒場寮自治会での活動をきっかけに、音楽活動を開始する。オルケストタ・デル・ビエントなど多くのバンドで活躍する。現在はベルリン在住。現地の音楽を精力的にレポートする傍ら、自らもプレイヤーとして活動している。なお小塚氏については、後日のメルマガで詳しく触れる予定。

◆ プレンツラウアー・ベルク
ベルリン市街北東部に位置する地区。旧東ベルリン時代には廃墟のような部分が多くを占めていたが、そこに若いアーティストらが住み始めたことから活気が生まれ始める。東西統一後、現在に至るまでにそのお洒落さは洗練され、最先端のファッショナブルさとそこここに覗く旧東時代のノスタルジックな雰囲気が相まって、ベルリンでも最も人気のある地区のひとつとなっている。

◆ ベルリンのクラブ
クラブカルチャーの盛んなことで有名なベルリン。クラブカルチャーに造詣が深いわけでもない退屈ロケットだが、ベルリンでは有名クラブもしばしば使われなくなった大規模建築を再利用していると知って行ってみた。例えばもっとも有名なクラブの一つ、Tresor(写真下)は火力発電所の再利用。ハコによってかなり雰囲気が異なるということだが、Tresorでは平日月曜夜でさえ、終電がなくなる頃になると人が増えてきて、若者たちがけっこうストイックに踊っていた。ただし、箱によっては一見してとてもクラブであるとは思えない場合も多く、時にはたどり着けないことすらある。

◆ Roland606
世界で多くのシェアを獲得している日本の電子楽器メーカー「ローランド」社による代表的なサンプラーのひとつ。発売当初のモデルについても、いまだにファンは多い。

◆ Aphex Twin
イギリスのミュージシャン・DJであるリチャード・D・ジェームスのアーティスト名。その音楽はテクノ・エレクトロニカに分類されることが多いが、楽曲によって異なる様々なアプローチを試みる作風は複雑で、単純なジャンル分けを許さない。デビュー以来今もなお多くのミュージシャンに影響を与えている。

◆ The Light 3000
the Smithsの代表作である3rdアルバム「クイーン・イズ・デッド(The Queen Is Dead)」に収録されている曲「ゼア・イズ・ア・ライト(There Is a Light That Never Goes Out)」のカヴァー。

◆ the Smiths
1980年代を代表する、イギリスのロックバンド。1980年代のロックは、MTVによる産業化・スポイルが進んだ冬の時代のように語られることも多いが、ザ・スミスはむしろそうした状況に不満を持つ若い世代を中心に支持を受け、成功したともいえる。今もなお、いわゆるオルタナの文脈で語られるような後進のバンドを中心に、多くのミュージシャンに影響を与えている。

◆ Schneider TMと the Smiths
10代の頃、彼はthe Smithsが好きだったものの、カヴァーをした頃は嫌いになってしまっていた。現在はまた好きになったのだという。凝り固まらずに常に新しいものを探して模索する彼だから、こんな変化も起こるのかもしれない。

◆ 裸のラリーズ
1960年代から90年代にわたって活動した日本のバンド。京都にて水谷孝を中心に結成され、のちに東京でも活躍した。爆音を響かせる強烈な音楽性に加え、その断続的かつアンダーグラウンドな活動、音源の入手しにくさなども手伝い、もはや伝説的な存在になっている。

◆ sonarsound tokyo 2004
もともとは、先端音楽とアートの融合したフェスティバルとして、スペイン・バルセロナ発で誕生したイベント。2002年からは世界各地で催されるようになり、2004年に東京で開催されたものもこの一環である。2011年にも東京で開催され、また本年の4月6〜7日にも開催予定。
http://www.sonarsound.jp/ja/2013/

◆ スタジオ・セッション
Schneider TMは自宅から近い自らのスタジオに招いてくれ、小塚氏とのセッションの様子を見せてくれた。体調がすぐれなかったにもかかわらず、彼はドラムを叩き始めるとみるみる顔が上気し、時折子どものような楽しげな表情を見せていた。その後録音したトラックを再生しながら、椅子に座ってミックス作業のようなことを始めると、またすぐにクールな顔つきに戻るところも印象的だった。

◆ クロイツベルク
ベルリン東端の地区。外国人、特にトルコ人が多く、無国籍的な雰囲気を強く漂わせている。多くのアーティストらが活動し、また店を構えている。さらに個性的なカフェやライブハウスなども集まっていることで、刺激的な文化地区としてよく知られている。

旅日記【ロケットの窓際】019 クラクフの光と影

 まるで夜逃げでもするかのようにこっそりとプラハの街を後にしたのは、まだあたりも真っ暗な早朝のことだった。バスターミナルに人影は少なく、多く備えられている売店やファストフード店も、ひとつとして開いていない。バスの到着がやや遅れてやきもきするのだが、電光掲示板はそれについての情報などまったく流さない。表示されるのはただただ、現在の気温だけだ。「 0」という表示がやがて「 -1」に変わる。そんなことをわざわざ知らせてくれなくてもいいのに。氷点下、という言葉が頭に浮かべば、体感温度はいっそう下がっていくかのようだ。

 クラクフの街は、まったく機嫌がよさそうにどさどさと雪を降り積もらせ続けていた。でも街の人びとはたまったものではない。みな一様に、首をすくめて、あるいはフードを目深にかぶって、急ぎ足に歩いている。荷物を引きずり、彼らに習う。
 ポーランドを代表する歴史と文化の街、クラクフ。旧市街のあたりには、歴史的な建造物が堂々と立ち並んでいる。現代的なスーパーマーケット、ファストフード・チェーンやレストランなどもそれらの中に存在しているのだが、きちんと調和を図り、風景の中に溶け込むべく努力をしている。
 ポーランドといえば、侵攻の被害を受けた国という漠然としたイメージがある。古くはモンゴル帝国から、そして 20世紀にはドイツから。けれども、そうした歴史の中でも、この国は独特な先進性を見せてきた。その象徴がこのクラクフだ。

 14世紀、この地にはクラクフ大学(ヤギェウォ大学)が創立された。ポーランド最古の大学にして、スラヴ人が創立した初の大学だ。 15世紀にこの学長だったパヴェウ・ヴウォトコヴィツの発言は、人権についての画期的な発言をし、現在に至るまでの人権思想の最初の流れを作り出したことで知られている。

 その経緯というのは、こうだ。 15世紀のコンスタンツ公会議では、ドイツ騎士団がポーランド王国を激しく非難した。というのも、当時「異教徒」であったリトアニアとキリスト教国のポーランドが同盟し、ドイツ騎士団と戦ったためだ。リトアニアのみならずポーランドも絶滅すべし、というドイツ騎士団の主張に対して論駁したのが、ヴウォトコヴィツだった。異教徒であっても、主権・生存権・財産権を生まれながらに持っているのであり、したがってそれらへの自衛権を行使するのはまったく正当である、というもの。 15世紀にこれほど明確な基本的人権と国際法の理念にかかわる言及が行われたというのは、まさに驚くべきことだ。またこれは、政治的・宗教的な権力に対しても毅然として独立した態度を表明する大学としてのあり方を表してもいる。

 こんな歴史的事実に象徴されるように、現在に至るまでポーランドの教育水準は高い。大学での学位取得者が人口に占める割合は、一千万人以上の国々の中で、 2位の日本を上回る世界1位だ。日本より 10%以上も高い50% 程度というのだから、この数字がいかに高いかということだ。実際、公用語はポーランド語であるにもかかわらず、体感した英語の通用率は高い。

 驚かされたのは、物乞いにやってきた親子連れのホームレス。息子のほうの青年が、流暢な英語で語りかけてくる。自分たちはホームレスで暖を取る場所もなくて凍えており、なにしろパンも買えない状況なのだ。ポケットの小銭をいくらか分けてくれないか。なんだか面食らっているうちにわずかな小銭を渡してしまったのだが、でも彼らの姿はたしかにみすぼらしく、嘘をついているようでもなかった。一定の教育を受けた人間がこんな状態になる社会状況というのは(もちろんどのような人間もこんな状態にあるべきではないが)、いったいどういうわけだろうと考える。教育水準が社会の豊かさにつながっていないのだ。日本も他人事ではいられない問題だけれど。
 皮肉といえば、この世界で初といってもいい普遍的な人権思想が発信された街で、現在最もポピュラーな観光資源となっているのが、近・現代史上最悪の人権蹂躙のひとつの舞台となったアウシュヴィッツ収容所跡だ。クラクフからバスで 2時間程度の場所にそれはある。最寄りの都市がクラクフだから、アウシュヴィッツに向かう人びとは大抵、クラクフを拠点にした観光ツアーに参加するのだ。

 レストランの食事の質は高いけれど、物価が安いにしてもきちんとしたところに入ればやや値は張る。それで、本格的に自炊を始めたのもこの頃のことだ。安いホステルには大抵、宿泊者が自由に使えるキッチンがある。パスタを茹でる程度の簡単な調理なら、いくらでもできるのだ。
 パソコンの画面と睨めっこをしながらふと気がつけば、夜も更けてしまっている。人影も少なくなった宿のキッチン・スペースで包丁を握り、湯を沸かす。ぼそぼそとした空気の中、男二人で料理を作るのだけど、でも自分の手で料理するという作業は何かしら心を落ち着かせてくれるものがある。買い物をし、調理をし、食べて、片づけをする。そんなふうにひと巡りのプロセスを完成させてしまうと、満腹感と同時に、心の中に小さな安全地帯ができたかのように感じる。
 窓の外では闇にまぎれて、なおもしんしんと雪が降り続けている。でもそんな冷気も入ってこられない場所を心の中に作ること。冬の東欧を旅するときには特に、こんなことが重要なのかもしれない。

〈続〉

文・金沢寿太郎

アフタートーク【ロケット逆噴射】019

スガ
オランダに入った途端に、急に陽が射してきたよ。

寿太郎
いい国ですね、実にね。陽が射すなんてフレーズを使えるのはいつ以来だろう。

スガ
たしかヴィオラの取材でオトフォークにいった朝かな。あの時は晴れてたけど、それを入れても、今年に入って2回目くらい? かもしれない。

寿太郎
そういえばオトフォークは一瞬だけ晴れたね。しかしそれにしても、ヨーロッパの冬は陰鬱。旅行記とかずっと暗い雰囲気だけど、あれは別に俺が暗いからじゃなくてほんとに暗いんですよ。何もかも。

スガ
寿太郎くんが暗くないというのはちょっと賛成できないけど、たしかにヨーロッパの冬は暗いからね。気候のせいで3割増しくらいに暗くなってる感じはあるね。

寿太郎
まったく太陽のように明るい人物に何を言っているのか。まあ、というわけで長かったドイツもついに出て、現在はオランダ行きのバス車内というわけですね。

スガ
そう。移動中にアフタートークをするのははじめて。あ、あと長かったドイツから移動と言えば、ぼくたち、もう2週間後にはアフリカにいるんだよね。

寿太郎
そう。というか、ノービザ滞在期間のリミットの関係で、出ざるを得ないんですね。ちょっとすっ飛ばしてしまうのが残念だけど、また戻ってくる予定もありますし。その代わりにベルリンとかでは濃密な取材ができてよかったです。

スガ
ヨーロッパのEU加盟国合わせてノービザ滞在3ヶ月まで、というのね。それだけあれば十分だと思ってたけど、取材しながらだとあっという間で。さすがに東欧に偏り過ぎなところはあったから、夏ごろに戻ってきてもうすこしやる予定。で、えーと今週はベルリンね。

寿太郎
EU加盟国というか、シェンゲン協定加盟国ね。微妙に違うのがややこしいです。で、その東西のかつての境目だったベルリン。なかなかカオスな街でした。

スガ
東西の境目、ていうかベルリンて東ドイツなんだよね。ぼくも今回旅するまでちゃんと知らなかったけど、壁は西ベルリンを取り囲むように建ってて、そのまわりは全部東ドイツ。東西ドイツの間には壁もなかったという。

寿太郎
東西ドイツの境界自体に壁作ったらえらく長い距離になっちゃいますからね。万里の長城もびっくりだ。でも俺も小さい頃は、ほんとに東西の間に壁があるんだと思ってました。今のベルリンはバラエティ豊かで、注意して見ないと旧西の地域なのか旧東の地域なのかわかりにくい場合も多いです。

スガ
そうそう。今回取材したシュナイダーの住んでるプレンツラウアーとか、旧東のなかにはすっかりコジャレた地域になってるところもあるからね。

寿太郎
そうだね。古い建物の構造とかを見ると、旧東の特徴が出てる場合だとかがあるみたいだけれど。でも綺麗にリフォームされているケースもありますからね。

スガ
うん。ベルリンのごちゃごちゃしててカオスな感じ、ぐっとくるものがあった。

え、おい、アムステルダム着いちゃったよ。

寿太郎
予定より1時間以上も早い。なんだこりゃ。しかもまたどんより曇ってきましたよ。よくない。

スガ
光が見えたのはバスのなかの一瞬で、僕たちが着いたらまた安定のくもり空。

というわけでひきつづき、バスの待合室からお送りします。

寿太郎
ベルリンはほかのドイツのどんな都市とも違う特殊性がありましたね。城や教会などを中心にこじんまりとまとまっているわけではない。というか全くまとまりがない。常に流動的で、いろんな側面があって魅力的という感じですね。

スガ
ベルリンは外から集まってくるアーティストが多いとは聞いてたけど、カオスな分なにか新しいことをはじめられそうな、そういう予感とか気配が満ちてるというのかな。ひとつの都市でも地区によって感じがぜんぜんちがうというのは東京にも通じる感じがしたけど。

寿太郎
あと、まあ次のライプツィヒにもいえることだけれど、旧東側から西側に人やモノがどんどん動いていってしまったあとの隙間みたいなものがあるようなことを感じた。それは空間的な意味でも、そうではない抽象的な意味でも。そういうところに若い表現者たちが可能性を感じて、なにかを創造していくということなのかもしれない。

スガ
それはあるよね。隙間があるから新しいものがそこからはじめられるという。

寿太郎
ワルシャワあたりからずっとだけど、何もない壁ってのをよく見ましたね。元々隣に建物があったんだけど、それが取り壊されてしまうと、窓も模様も何もないただの壁が出てくる。で、それがグラフィティ・アーティストたちのための格好のキャンバスになると。たとえばそういう状況は象徴的かもしれない。

スガ
で、今週のシュナイダーだけど。彼はドイツ国内ではふつうにツアーとかするくらいに人気があるんだよね。まさかそんな人にインタビューできることになるなんて思わなかったからびっくりした。Biotope Journalのサイトのシステムとかでお世話になっている方が小塚さんを紹介してくれて、小塚さんと会ってみたらなんかいろいろぶっ飛んだ人で、なんだこの人は! ってびっくりしてたら翌日にはもうシュナイダーにインタビューできるとかで、ますますびっくりした。

寿太郎
なんだか怒涛のごとくいろんな人にお会いして話を聞くことができましたね。どこの国から来たにしろ、ベルリンでお会いした方々は全員とても個性的だった。

スガ
いやほんとにユニークな人が多かった。シュナイダーは穏やかな人だったけど、音楽やりはじめると途端にいきいきしちゃう感じとかね。彼はまたライブで日本に来たりするかもしれないから、また会えるといいなと思うよ。

寿太郎
まったく。そしてぜひ、日本でももっと知られるようになって欲しいですね。

はい、そして、今週のお便りのコーナー。

スガ
今週は、東京都にお住まいの「眠れぬ夜が大好きさん」から、エアメールをいただきました。

「おふたりがふだん、どんなものを食べているのかが知りたいです。食べものの記事ではおいしそうな料理が紹介されていますが、いつも美味しいものばかり食べているのでしょうか…。うらやましい!」

寿太郎
なるほど。まあ、食べものの記事では美味しそうなものを中心に載せてるわけですからね。

スガ
ほんとは美味しそうじゃない写真もたくさんあるんだけどね。サイトに載せるとグロ画像になってしまうから自重している。

寿太郎
基本的には、いちおうその土地のレストランのようなところで、地元の食べものを一度は食べるようにしてますね。中国だの中央アジアだのでは、そのへんでごはん食べたらそれが地元の食べものだったりするのだけど、ヨーロッパではほっとくとケバブだらけになりかねないから。でもけっこう高いんですよね。毎回食べるようなことはできない。

スガ
うん。ていうか、先進的な都市に行けば行くほど、地元の人の食も多様化してて、その土地固有の伝統的な食とかにこだわるのはむしろ観光客、っていうところもあるかもしれないけど。まぁそれにしてもちょっとは食べたいというのはある。クラクフのめしはうまかったなぁ。

寿太郎
そうだね。それは日本でもいえることで、皆がいつでも寿司だの天ぷらだの食べてるわけじゃないからね。ある意味ではファストフード、牛丼なんかのほうが日本らしいかも。でもたとえば中央アジアでは、皆がいつでもラグメン食べてるんだよね。クラクフの飯は本当にうまかったですね。ランチタイムでお得に楽しませていただきました

スガ
ベルリンで一番通ったのなんてインドカレーの店だからね。

寿太郎
ベルリンはインターナショナルすぎてなんでもあるし、ドイツらしいものを探すのがやや難しいぐらいなんだよね。前回メルマガで触れた唯一まともだった寿司屋もベルリンだったし。あとはまあ、ベルリンといえばカリーヴルストかな。

スガ
ベルリンが住みやすそうな気がしたのはそのへんもあるね。アジアンフードとかもすごく安くて、意外とイケるのをだす店がけっこうある。カリーヴルストはなにか力いっぱいジャンクな感じのやつを食べたね。伝統的なドイツ飯みたいのはあそこで一度も食べなかったけど。

寿太郎
活気あるんですよね、アートにしろメシにしろ。常に動いている感じがするし、そういう飯屋はうまいですよね。まあ、ただそういう店を見つけにくいような街では、自炊に向かうことも最近は多いですね。ワルシャワだとか、ライプツィヒだとか。

スガ
ワルシャワもライプツィヒも、宿をとった場所が繁華街に近すぎたというのがあるかもしれないけど。安い飯屋がないところだと自炊。今週寿太郎くんが旅行記でも書いているけど、まぁ自炊も、悪くはないよね。

寿太郎
そう。旅行記の繰り返しになるからアレだけど、美味しいものをしっかり作れたときは、なんだか精神衛生もよくなる気がするよね。最近はなんだか腕も上がってまいりましたし。

スガ
今までのレシピはペペロンチーノとシーチキンスパゲッティと娼婦風スパゲッティ、てやつ? あと寿太郎くんは半熟卵を作ることにかけてはなみなみならぬ情熱を燃やすよね。

寿太郎
娼婦風スパゲッティはプッタネスカとも呼ばれるやつですね。『ジョジョの奇妙な冒険』第4部に出てきたやつとほぼ同じレシピで作っております。簡単でおいしくできますね。トマトソースをちゃんとトマトから作るのが楽しい。あと、半熟卵好きなんですよ。おいしいし、栄養あるし、なにしろ時間を正確に測るだけで作れてしまうのが楽でいいですね。

スガ
そうですね。また来週。

編集後記:退屈なしめくくり

ゆうべアムステルダムにやってきたのですが、ゴツゴツした建物が整然と並んでいた東欧、ドイツからこちらにくると、街並みが一気にオープンな感じになって、ちょっとしたカルチャーショック。それに気候の変化もくわわって、じわり春の訪れを感じます。

Biotope Journalでは英訳をボランティアでお手伝いしていただいているのですが、あおやぎさん、むまさんにつづき、じつは先週からあらたに、ひらばるさんという方にくわわっていただいています。忙しい中手伝ってくれて、ありがとう! Biotope Journal の英訳は、みちみちで知り合った方や、取材先の方が読んでくれているほか、先日、こんな風に紹介していただいているのを知りました。「英語学習者にオススメ」なんて、うっかり冷や汗がながれてしまいそうですが、しかし、英訳は寿太郎くんやあおやぎさん、むまさん、ひらばるさんに頼りきり、というのがぼくの正直なところ。ひきつづき、みなさんがんばってくださいね!

Biotope Journalへの感想、ご意見、おたよりコーナーへの投稿などは、下記Twitter,Facebook,メールなどで送っていただけるとうれしいです。それでは、来週はさらに西の土地から。さようなら!

スガタカシ